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ルードルフ・フォン・イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫、1998年第29刷)   

 この本は、わたしが一番好きなものの一つです。
 「自分の権利があからさまに軽視され蹂躙されるならばその権利の目的物が侵されるにとどまらず自己の人格までもが脅かされる」というイェーリングの言葉は時代を超えて現代に生きる私たちの心をも強く揺さぶる力を持っています。

 イェーリングは「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するようなしかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である」と書いています。
 しかも、それは「権利者の自分自身に対する義務である」とイェーリングは主張します。
 わたしが早稲田大学大学院で研究しているカナダの現代思想家チャールズ・テイラーは、このことを「主体的権利とは、その所有者がその権利を実現するために行動し得る、そしてそのために行動すべき何かなのである」と書いています。
 権利とは単なる自己利益に対する保護請求権ではなく、自己に対して尊重を要求する権原であるという考え方は、近代人権の基本的思想です。
 そして、全ての生きとし生けるものにとって、自己の生存を主張することは最高の法則であるが、人間にとっては肉体的な生存だけではなく、倫理的なるものとして生存することも重要であるとイェーリングは主張します。
 権利とは人間の倫理的生存条件を保障するものなのです。

 イェーリングは、さらに「権利の力は、愛の力と全く同様に、感覚にもとづいている」「理解力も洞察力も、感覚の代役をつとめることはできない」と書いています。
 権利の源泉は権利感覚です。
 近代日本における最高の哲学者と考えられる西田幾多郎も、主著『善の研究』のなかで、人間の生き方、いわゆる倫理学の原則として「善」を取り上げ、「善には命令的威厳の性質をも備えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則そのものに価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである」と述べ、「善の裏面には必ず幸福の感情が伴うの要がある」「幸福は満足に由りて得ることができる」としています。
 世界的な現代思想家の一人であるリチャード・ローティも、これまで西欧社会において人間が共通に持ち、道徳性の基盤となると思われてきたのは「合理性」「理性」であり、今日でも感情は道徳性とはまったく関係がないという考え方が支配的であることを批判し、人権文化の発展は感情の進歩によってのみ生じると主張します。
 ローティは、理性は感情より強く、理性が要求する道徳的義務こそ普遍的であると主張した思想家としてカントを挙げています。このローティのカント解釈の是非はともかく、西欧近代社会では理性こそ人間に普遍的に与えられたものであり、人間の倫理の基礎をなすものであるという考え方が支配的であったことは間違いがありません。
 イェーリングの思想は、その意味で伝統的な西欧近代思想に超える要素を含んでいたと言えます。イェーリングの思想が西欧社会の枠を超えて世界に普及したのは、このような点にあるのかも知れません。『権利のための闘争』は日本でも1890年に西周の翻訳で出版されています。
 ちなみに、現代日本の脳科学者である茂木健一郎は「感情こそが不確定性を含む環境下での適切な行動決定を導く」重要な要素であることが近年の研究の結果明らかになったと書いています。1818年に生まれ、1892年に没したイェーリングの思想は、現代自然科学の知見とも整合的なのです。

 イェーリングの思想のもう一つの特徴は「攻撃された権利を守ることは権利者の自分自身に対する義務であるばかりでなく、国家共同体に対する義務でもある」という主張にあります。
 イェーリングは「憲法上の(国民の)権利と国際法上の(国家の)権利のための闘争の戦士は、私法上の権利のための闘争の戦士以外の者ではありえない」という考えに基づき、「外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護育成すべき宝はない」と強く訴えたのです。
 当時のドイツは「国王、大地主、軍部、官僚の連合体が擁立され」「資本主義の発達が幼稚な為に」、自由主義はきわめて弱体な状態にありました(河合栄治郎『社会思想家評伝』社会思想社、1973年)。
 1848年のドイツにおける3月革命は上記の連合体によって抑え込まれ、ビスマルクの率いるプロイセンの軍事的成功を背景とする権威主義的な統一が進められ、国法学の世界にもビスマルク的憲法秩序を所与のものとして受け入れる法実証的国法理論が登場します(樋口陽一『比較憲法』青林書院、2000年)。
 イェーリングは、個人の権利の尊重こそが国家に対する義務でもあると主張することによって、法の妥当性を国家から独立したものと主張する20世紀初頭の自由法運動の先駆けとなったと一般には考えられています(田中成明他『法思想史(第二版)』有斐閣、2001年)。
 「権利=法とは理想主義である」「自己を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である」とイェーリングは主張します。
 そして、この理想主義は「自己の権利を守ることによって法一般が守られるばかりでなく、法一般が守られることによって自己の権利が守られることを心得ている」とイェーリングは書いています。
 当時の権威主義的体制の下で、このイェーリングの主張は権利の主体としての個人の尊重を訴えるぎりぎりの表現であったろうとわたしは考えています。

 「権利感覚の本質は行為に存するのだから、行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう」。
 イェーリングの「権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である」という言葉は、現代のわれわれにも強く訴える力を持ち続けているとわたしは感じています。
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by fwge1820 | 2006-04-29 17:48 | オススメの本

本年度最初の講義(案)―「人権工学」とは何か?   

人権工学(Human Rights Engineering)とは何か?

 私たちが生きる現代日本は「近代社会」と呼ばれています。
 近代社会とは、巨大な工業力、ぼうだいな交通通信網、完備した行政機構、教育制度、高い平均年齢、ひくい死亡率、発達した学問、芸術などを特徴とする社会です(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1983年)。

 この「近代社会」は、特定の集団的社会意識、いわゆる「社会像(social imaginaries)」によって支えられています(Charles Taylor, Modern Social Imaginares ,Duke University Press, 2004)。
 テイラーによれば、「社会像」とは、「社会理論」よりも広い概念で、第一にある社会に生きる普通の人々が自らの「社会的環境(social surroundings)」をどのように想像しているか、に焦点を合わせた用語であり、第二に「社会理論」が一般に少数の人々によって共有されているものであるのに対して、「社会像」は必ずしも社会全体ではないが、より多くの人々によって共有されたものであり、第三に、「社会像」は共通の慣習、広範囲に共有された正当性の感覚を可能とする共通理解です。

 わたしは、「近代社会」を支える「近代社会像」の基層理念は「権利主体としての自己」であると考えています。
 テイラーは、「近代」を「自己(self)」を理解する基本的なカテゴリーの革命と捉える近代史観を提起しました(C. Taylor, Hegel, Cambridge University Press, 1975)。
 すなわち、近代以前の自己が宇宙的秩序との関係で自らを規定していたのに対して、近代的自己とは自己規定的(self-defining)であるとするのが、テイラーの洞察なのです。
 一方、テイラーは「近代」と「前近代」の違いを、法の様式の観点から捉えます。
テイラーによれば、近代以前にも個人の生命に対する普遍的で自然的な権利という観念は存在しましたが、17世紀の自然法理論は、生命や自由に対する権利が何らかの「法の下」にあるものとする従来の考え方を、権利の所有者がその権利を実効的なものとするために行動すべき、そして行動し得る何かという主体的権利の観念へと転換しました。
 生命や自由への権利は、近代社会以前には外部から与えられるものであったのに対して、近代の主体的権利の観念の下では、権利を実現する役割は当人に与えられることとなったのです。17世紀の自然法理論は、権利言語を普遍的な倫理的規範を表現する手段として使用することを通じて、この主体的権利に普遍的規範性を賦与しました(C. Taylor, Source of the Self: The Making of the Modern Identity, Harvard University Press, 1989)。
 この権利主体としての近代的自己像は、テイラーが上げた3つの近代社会像と密接に結びついています。神聖な宇宙的および社会的秩序から解放された(disengaged)自由な主体に対応して、自由な個人の同意によって形成される社会、つまり、固有の権利の保持者(bearers of individual rights)である権利主体によって構成される社会という社会像が誕生したのです。
 すなわち、生産手段をまったく所有しない古代の奴隷や、不完全にしか所有しない中世の農奴に対して、「近代」の賃労働者は自分自身の労働力を自由市場に登場させて他の商品と優劣を競うことが出来る「その人身の唯一の所有者」となりました。
 身分制社会から自立した個人は、人身の自由、所有権の確立(経済的自由と平等)を基礎とし、個人が自由に議論し、相互の合意に基いてある社会制度を選択する精神的自由(思想・表現の自由)を持つ、権利の主体となったのです(樋口陽一『比較憲法』(青林堂、2000年)。

 人権工学は、従来、分子生物学がDNAという単位に基づいて構成されるように、権利主体としての自己という基層概念に基づいて構成される新しい学問です。
 また、人権という性格上、単なる実証科学ではなく、具体的な応用方法も研究対象とします。これが、この学問体系を人権主体論ないし人権思想とは呼ばずに、「人権工学」と名付けた大きな理由です。
 特に、近年、脳科学、認知科学、言語哲学等の隣接学問の急速な発展により、「自己」という意識のあり方は自然科学の用語、方法論で記述することが可能になってきています。
 人権工学は、近代社会が生み出した「近代人権」という信念体系をより科学的な基礎に基づいて再構築し、その具体的な応用方法を考えることを目的とする学問です。

 この人権工学は、近年のグローバル化も研究の対象とします。
 ITを中心とする巨大な技術革新が引き起こした経済のグローバル化は日本を含む各国経済に大きな変容を迫っています。この歴史的な構造変化について学ぶことは、21世紀を生きる私たちにとって必須の課題です。
 このグローバル化は国民国家を主要な構成員とする従来の国際社会秩序に大きな変容を迫っています。
 「わたしたちのニーズを満たしてくれる経済は地球規模となったにもかかわらず、これらのニーズの速度と発展とコントロールしようとする政治体はいまだ国家規模にとどまっている」現代社会、いわゆる「近代後期社会」において、どのような「社会道徳」が可能なのかは、私たちが現在直面する最も大きな課題の一つです(M・イグナティエフ、添谷育志・金田耕一訳『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』風行社、1999年)。

 人権工学は、近代社会を権利主体としての自己を基本単位とするシステムとして把握するという観点から近年のグローバル化を巡る課題(IT倫理学など)を検討すると同時に、人権の基本である人権感覚を養成するために様々な参加型手法(トランセンド法、プレイバック、サイコドラマ、ITを活用した多文化共生教育等)を活用した参加型人権教育プログラムの実験を進めます。その際には、自己という意識を巡る近年の隣接科学の知見、技術を全面的に活用していきます。
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by fwge1820 | 2006-04-01 09:17 | 東洋大学