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アフガニスタン復興支援と国連難民高等弁務官事務所   

来週は、国連難民高等弁務官事務所についての講義。
わたしは、特定の国際機関の機構図とか歴史には興味が湧かないので、どうしようかなと考えているうちに思い出したのが、2002年1月に東京で行われたアフガニスタン復興支援会議を巡る出来事。
最終的に当時の外務大臣、外務事務次官の更迭に発展したわけだけど、その始まりは2001年9月11日の米国同時多発テロにあった。
あれから、本当に世界は変わった。
そのことを、もう一度振り返ってみようと思った。

【アフガニスタン復興支援の背景:米国同時多発テロ】
2001年9月11日 米国同時多発テロ
20日 米議会上下両院合同会議および米国民に向けたブッシュ大統領演説
「われわれの対応は、即時の報復と単発的な攻撃をはるかに超えるものとなる。米国民は、1回限りの戦闘ではなく、これまでに体験したことのない長期的な軍事行動を想定するべきである。テレビで見られる劇的な攻撃もあり、成功しても明らかにされない秘密作戦もあり得る。われわれは、テロリストの資金を枯渇させ、テロリスト同士を対立させ、彼らを隠れ家から隠れ家へと追い立て、避難場所も休息も得られなくなるまで追い詰めていく。そして、テロリストに援助と隠れ家を提供する国家をも追及する。どの地域のどの国家も、今、決断を下さなければならない。われわれの味方になるか、あるいはテロリストの側につくかのどちらかである。今後、テロに避難所あるいは援助を提供する国家は、米国に敵対する政権と見なす。」(http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0026.html
10月7日 アフガニスタンへの空爆開始
19日 特殊部隊投入
11月9日 マザリシャリフ陥落
11日 バーミヤン陥落
12日 ヘラート陥落
13日 カブール陥落・ジャララバード陥落
14日 チェイニー副大統領「タリバン政権崩壊」と発言
20日 アフガニスタン復興支援高級事務レベル会合(ワシントン会合)
25日 海兵隊投入
26日 クンドゥーズ陥落
27日 アフガン各派代表者会合(12月5日)(ボン会合)
カルザイ氏暫定行政機構議長に選出
12月7日 カンダハール陥落
20日 アフガニスタン復興支援運営グループ第1回会合
(ブラッセル会合)(21日)
22日 暫定行政機構発足
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/suii.html

【アフガニスタン復興支援国際会議(2002年1月21日、22日、at東京)を巡る混乱】
▼02年1月20日、アフガニスタン復興支援会議レセプションへの出席を直前に外務省から拒否されたNGO(非政府組織)2団体の一つの有力NGO「ピースウィンズ・ジャパン」代表者・大西健丞さんが「(私の)政府批判に、代議士(鈴木宗男衆院議院運営委員長)が怒っていると言う理由で断られた」とメディアに語る。
▼21日 真紀子外相が野上事務次官に電話で問いただす。
▼22日 外相が「政治家の関与があり(NGOの参加許可は)無理だ、と(野上次官が)言い続けた」と発言。
▼24日 衆院予算委員会で民主党・菅直人衆院議員の質問に、外相は、宗男氏の関与を野上次官が認めたと答弁。これに対して鈴木h議員は「外相はウソをつく癖がある。非常に不愉快だ」と発言、野上次官も記者会見で全面否定。
▼25日 国会答弁について自民党の大島理森・国対委員長から“事情聴取”された外相が「残念ですね。官僚のいうことは信用されて、国会議員・大臣がいうことは信用されない」と、記者団の前で涙する。
▼25日 小泉首相が「(涙は)女の最大の武器というからね」と語る。
▼29日(未明) 小泉首相が「本当に何が起こるか分からない。一寸先はヤミだ。最初のボタンの掛け違いもあるし、せっかくアフガン会議が成功し、これからアフガンを復興しようという時にねえ。こういうことになろうとは。しかし、今後どうやって打開するかが先決だな」と語る。
▼30日(未明) 小泉首相、田中真紀子外相と野上義二外務事務次官の両者を更迭。鈴木宗男衆院議院運営委員長も辞任。

【緒方貞子前国連難民高等弁務官による2002年3月17日の、ジャパンソサエテイィでのスピーチ抜粋】
As the Afghan reconstruction agenda unfolded internationally, I was appointed by Prime Minister Koizumi to serve as his Special Representative to lead Japan's efforts. I had visited Afghanistan and the neighboring countries several times over the last years as the United Nations High Commissioner for Refugees. The Afghans were the largest since caseload of refugees, totaling close to 6.3 million when I took up the office in l991. With the withdrawal of the Soviet occupying forces, many returned home. In the subsequent years, some went home as others continued to flee. At the end of 2000 when I left, they were still the major refugee group numbering some 2.5 million.
In the fall of 2000, when I visited Pakistan, Afghanistan and Iran to make my last attempt at mobilizing support to solve the problem of Afghan refugees, the refugee hosting Pakistan and Iran, faced serious difficulties due to dwindling international aid. To the donor community, repatriation to Afghanistan was not an attractive solution, because Afghanistan at the time was under the fundamentalist Taliban regime. They assumed that nobody should want to go back and live under the Talibans. In spite of all the tragedies involving September 11th, for Afghanistan and the Afghan people, it was the subsequent developments following the attacks that brought them new opportunities. Personally, I felt privileged to be able to contribute to the betterment of the Afghan refugees who represented my biggest unfinished work.
http://www.humansecurity-chs.org/activities/outreach/js_afghan.html

【アフガニスタンで活動する日本のNGOへの支援】
2001年10月以降2003年1月までジャパン・プラットフォーム(JPF)拠出金(平成13年度)→アフガニスタンで活動するJPF参加10団体の現地初動活動資金として約5.5億円を使用。
燈台(アフガニスタン難民救済協力会)
カブール県ラシュモニア症撲滅計画(草の根無償資金協力)/8,361,515円
(平成14年3月2日贈与契約締結)
特定非営利活動法人 AMDA
パキスタン・クエッタ周辺におけるアフガン難民・帰還民への緊急医療救援プロジェクト(NGO緊急活動支援無償)/約3,800万円(平成14年3月22日支援実施契約締結)
財団法人 日本国際親善厚生財団
パキスタン・ペシャワールアフガン難民医療支援活動
(NGO緊急活動支援無償)/約5,990万円(平成14年3月22日支援実施契約締結)
アフガニスタンへ病院用ベッドを贈る会(愛知県安城市)
カピサ病院、ローガル病院への中古ベッド、車椅子等の供与(中古リサイクル物資輸送費支援)平成14年11月21日 供与限度額:4,849,609円
特定非営利活動法人 アジア戦災孤児救済センター(東京都)
トラウマ・PTSDに苦しむ戦災孤児支援プロジェクト
平成14年12月26日 9,918,445円
社団法人 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン
カブールにおける女子学生・女子教員の制服作成技術指導及び支給プロジェクト
平成15年1月17日 9,782,865円
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by fwge1820 | 2005-11-26 11:19

子ども最優先! ユニセフ(国際連合児童基金)   

今回(11月16日)は懐かしいユニセフについての講義。
ユニセフのことは色々な角度から話せるわけだけど、今回は一応、人権という視点から話を進めてみる予定。

【国際人権の歩み】
1941年 フランクリン・ルーズベルト米国大統領
  Freedom of speech and expression
  Freedom of worship
  Freedom from want
  Freedom from fear
1948年  世界人権宣言
1965年 あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約
  (日本は1995年に締結)
1966年  経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約
  (日本は1979年に締結)
1966年 市民的及び政治的権利に関する国際規約
  (日本は1979年に締結)
  (但し、選択議定書及び第二選択議定書は未締結)
1979年  女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約
  (日本は1985年に締結)
1989年  子どもの権利に関する条約
  (日本は1994年に締結)
1990年  全ての移住労働者及びその権利保護に関する条約
  (日本は未締結)

【子どものための世界サミット(1990年9月)より国連子ども特別総会(2002年5月)へ】
子どものための世界サミット(1990年9月30日)
「子どもの生存、保護および発達に関する世界宣言」&「1990年代における子どもの生存、保護および発達に関する世界宣言を実施するための行動計画」
  (1)1990年から2000年までの間に、乳児死亡率と五歳未満児死亡率を現在の三分の二か、出生1000名当たりそれぞれ50と70の、どちらか低い方まで下げる
  (2)1990年から2000年まで間に、妊産婦の死亡率を半分にする
  (3)1990年から2000年までの間に、五歳未満児の重・中度の栄養不良を半減する。
  (4)すべての人が安全な飲料水や、衛生的な糞尿処理施設のある生活ができるようにする
  (5)2000年までに基礎教育の完全普及を実現し、就学年齢児の少なくとも80%が初等教育を終了できるようにする
  (6)とくに女性の識字率に重点を置いて、成人(年齢については国が決める)の非識字率を少なくとも1990年レベルの半分にする
  (7)特に困難な状況にある子どもに対する保護をいっそう強化する
             ↓
国連子ども特別総会(2002年5月8日~10日)
「子どもに相応しい世界(World Fit for Children)」
  (1) 健康な生活の促進
  (2) 良質な教育の提供
  (3) 虐待、搾取および暴力からの保護
  (4) HIV/AIDSとの闘い
     ☞ 子ども参加
404名の子ども(8歳~18歳)が参加した「子どもフォーラム」の開催(5月5日~7日)
「わたしたちに相応しい世界」(日本語訳:安部芳絵・平野裕二)
「私たちは子どもにふさわしい世界を求めます。私たちにふさわしい世界はすべての人にふさわしい世界だからです。」
「みなさんは私たちを未来と呼びます。けれども私たちは現在でもあるのです。」

「子どもの生存と発達革命」(1980年代)より「子どもの権利革命」(1990年代~)へ
1980年1月、ジェームズ・P・グラントがユニセフ(国際連合児童基金)第3代事務局長に就任
「子どもの生存と発達革命(Child Survival and Development Revolution)」が始まる
発育観察(Growth Monitoring)
経口補水療法(Oral Rehydration Therapy)
母乳育児(Breastfeeding)
予防接種(Immunization)
       ↓
1989年11月20日、「国連子どもの権利に関する条約(子どもの権利条約)」が国連総会で採択される
生存(Survival)
発達(Development)
保護(Protection)
参加(Participation)
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by fwge1820 | 2005-11-14 14:31

ブレトンウッズ体制―市場は万能か?―   

ケインズ革命とブレトンウッズ体制
―市場は万能か?―

【20世紀の世界経済】
1880~1900年 帝国主義の時代
「イギリスにとっては、植民地略取が大いに強まった時期は1860―1880年の諸年のことで、19世紀の最後の20年間もそれが非常に顕著だった時期である。フランスとドイツにとっては、それはまさにこの20年間のことである」「独占以前の資本主義、自由競争の支配していた資本主義の発展が絶頂に達した時期は、1860年代と1870年代である」「1880年代以降の、すべての資本主義国家による植民地追求は、外交史と対外政策史のあまねく知られている事実である」(レーニン『帝国主義論』101頁)
1914年6月~1919年11月 第一次世界大戦
1929年10月24日 世界大恐慌
1936年 J・M・ケインズ『雇用、利子および貨幣の理論』
1939年9月1日~1945年8月15日 第二次世界大戦
1944年7月 ブレトンウッズ会議:固定為替相場制の採用を決定
1945年 IMF(国際通貨基金)と世界銀行設立
加盟国(1946年3月時点で40カ国)は金1オンス(28.35グラム)=35ドルで金とリンクした米ドルに対する自国通貨の平価をもち、平価の上下1%以内に為替相場を介入によって維持することが義務付けられた。1ドル=360円。
1971年8月 ニクソン米国大統領、ドルの金交換停止を発表(ニクソン・ショック)
1973年2月 全面フロート制への移行(ブレトンウッズ体制の崩壊)
1973年  第一次石油危機
1979年 第二次石油危機
1985年9月 G5(英米独仏日)プラザ会議 
1988年1月4日 1ドル=121円(85年9月当時は1ドル=240円前後)
1987年10月9日 ニューヨーク株式市場の大暴落
1995年4月19日 1ドル=80円
1997年 アジア金融危機
【アジア金融危機に見るIMFの政策】
金融引締
財政均衡政策の維持
金融システム改革
公的企業の民営化
GDP成長率を引き下げる







【現在のIMFと世界銀行】
IMF(国際通貨基金)
加盟国 184カ国
職員数 約2680名(139カ国)
出資金 3120億ドル
貸出し残高 710億ドル(82カ国へ)
世界銀行
加盟国 184カ国 
職員数 約1万人
【参考文献】
中谷巌『入門マクロ経済学』第4版(日本評論社、2000年)
ヴェ・イ・レーニン、副島種典訳『帝国主義論』国民文庫(大月書店、1977年)
大野健一・大野泉『IMFと世界銀行』(日本評論社、1993年)
【参考データ】
(1)主要国の植民地拡大の推移
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(出典: レーニン『帝国主義論』104頁)
(2)円・ドル為替レートの推移(1992年1月~2003年1月)
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出典(http://www.forexchannel.net/forex/enyasu_endaka/index.htm)(2005年11月8日付)
(3)1820年と1992年の経済大国 主要10カ国
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by fwge1820 | 2005-11-08 14:42

戦後日本と国際連合―憲法9条と国連憲章―   

【国際連合の成立】
1941年8月 ルーズヴェルト米国大統領とチャーチル英国首相が大西洋憲章 を発表
1942年1月 米・英・ソ連等の26カ国による連合国共同宣言
1943年10月 モスクワにおける米・英・ソ連・中国外相会議、新しい国際平和維持機構の成立の必要性を宣言
1944年7月 ブレトン・ウッズ会議(44カ国が参加)、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(世界銀行)の設立が決定
1944年8~10月 ダンバートン=オークス会議by米・英・ソ連・中国、国際連合憲章草案の作成
1945年2月 ヤルタ会議
1945年4月 サンフランシスコ会議(連合国50カ国が参加)、国際連合憲章を採択
 (1945年5月7日、ドイツ無条件降伏)
 (1945年7月26日、ポツダム宣言を発表)
 (1945年8月15日、日本ポツダム宣言を受諾)
1946年1月 ロンドンで第1回国連総会&安全保障理事会が開催

【日本の戦後~55年体制の確立】
1945年8月15日、日本ポツダム宣言を受諾
 日本の被害:軍人・軍属・行方不明約186万人、一般国民の死亡・行方不明約66万人、罹災 者875万人(服部卓四郎『大東亜戦争全史』および経済安定本部『太平洋戦争による我国の 被害総合報告書』)⇔当時の日本の総人口:7214万人
      (9月26日 哲学者三木清が獄死)
1945年10月11日 マーカーサー元帥による五大改革指令
 ①憲法の自由主義化と婦人参政権の付与
 ②労働組合の結成奨励
 ③教育制度の改革
 ④秘密警察などの廃止
 ⑤経済の民主化
1946年元旦 天皇の人間宣言
    1月4日 公職追放令
1月19日 極東国際軍事裁判所憲章発布
2月13日 日本国憲法マッカーサー草案が日本に示される
3月5日 日本国憲法が閣議決定
5月3日 東京裁判が開廷
11月3日 日本国憲法公布
1947年5月3日 日本国憲法施行
1948年11月 東京裁判が閉廷
12月23日 A級戦犯7名の絞首刑が執行
1950年6月25日 朝鮮戦争が勃発
1951年8月1日 警察予備隊令を公布・施行
9月8日 サンフランシスコ平和条約&日米安全保障条約に調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講話条約発効
1954年11月 自由民主党の結成
    (吉田茂内閣 1946年5月~47年5月、48年10月~54年12月)
1956年12月 日本の国連加盟
1960年1月 日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)・日米地位協定に調印(岸信介首相)

【日本国憲法9条と国連憲章42条、43条および51条について】
日本国憲法9条
1項:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国連憲章第42条
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。
国連憲章第43条
1項:国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ一つ又は二つ以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益には、通過の権利が含まれる。2項:前記の協定は、兵力の数及び種類、その出動準備程度及び一般的配置並びに提供されるべき便益及び援助の性質を規定する。3項: 前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべくすみやかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない。
国連憲章第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

【参考文献】
明石康『国際連合』第二版、岩波新書、1979年
河辺一郎『国連と日本』岩波新書、1994年
芦部信喜『憲法』岩波書店、2002年
辻村みよ子『憲法』日本評論社、2002年
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by fwge1820 | 2005-11-01 16:16