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「現代日本のアポリア―チャールズ・テイラーの『ヘーゲル』を読む」   

先日、大学教員になって初めての論文が仕上がった。
早稲田大学社会科学研究科の紀要『社学研論集』第6号用に書いたもの。
第一章はこんな感じ・・・。

 この論文では、現代日本が直面する思想上の課題に対してヘーゲル哲学が持つ意義を、テイラーのヘーゲル解釈に依拠しつつ考えることとしたい。
 テイラーは、一九六一年に『ヘーゲルから実存主義にいたる疎外の理論』で博士号を取得した後、一九七五年には大著『ヘーゲル』 、一九七九年には同著の要約版である『ヘーゲルと近代社会』 を刊行していることからも分かるように、ヘーゲル哲学に関する専門家として研究活動を始めた思想家である。 しかし、日本では『ヘーゲルと近代社会』のみが邦訳されており、しかも、同著には『ヘーゲル』において展開された『論理学』『現象学』の解釈、芸術、宗教および哲学に関する考察、ヘーゲル哲学の最も説明が難しい箇所の解明が含まれておらず 、その結果、テイラーは『大論理学』に取り組むことなくヘーゲル哲学を論じているという誤った認識すら一部には見られる。この論文が、テイラーのヘーゲル研究の全体像を過不足なく紹介する一助ともなることを期待している。
 ところで、現代日本の思想上の課題、あるいは現代日本が直面する思想上のアポリアとは何であろうか。
 テイラーは、「われわれの今日の文明における緊張は、啓蒙主義に由来するわれわれの社会の合理的な科学技術的傾向を、われわれが全面的に放棄することができず、またそうしようともしないのに、徹底的自律と表現的統一への願望を絶えず感じている、という事実からきている」と述べている。
 しかし、わたしには、現在の日本人がテイラーの主張するように「徹底した自律(radical autonomy)への欲求」と「自然との表現主義的な統一の完璧さへの願望」の板挟みになっているとは思われない。日本人は、徹底した自律も、自然との完璧な統一への願望もさほど強く感じていないように思われる。テイラーが提起した上記のディレンマとは、実は西欧が直面している「近代のアポリア」なのではないだろうか。
 日本人が、西欧人のようなディレンマを感じない理由は、わたしの考えでは、日本人が西欧人のような自己観をもっていないためである。テイラーは、西欧近代思想を支える二つの思潮として啓蒙主義とロマン主義を挙げ、いずれの思潮も単一の自己(unitary self)という観念に基づいていることを明らかにしている。 この「単一の自己」という観念は、西欧社会の知的伝統である認識論的二元論と存在論的一元論を結びつける思考様式である。物自体の世界に対する主体の自立的認識能力を確保することによって主体が認識する世界の一元性、つまり神が創造した世界の一貫性=善性が確保されるのである。
 一方、日本人は、西欧的な意味での「自己」観念を日常的な自己感覚の根底に持っていないように思われる。その理由は、湯浅泰雄が主張するように日本を含む東洋思想は伝統的に心と身体を不可分のものとして捉える傾向が強く、さらに身体的存在としての人間が修行を通じて新たな精神段階に達すること、つまり、「行為」を通じて意識の「ひらけ」に到達することを単なる思惟よりも高いものをみなす価値観が存在するためであると思われる。 つまり、日本人にとって、認識論的二元論が想定する心身二元論、主体と客体の峻別という思考様式は異質なものとして感じられているのである。湯浅は、このことを「近代西洋の哲学者は、哲学と経験科学の間には論理的な次元の区別があると考えている」が、「東洋では、哲学的推理と経験的検証とは本来一つのものでなくてはならないと考えられてきた」と表現している。
 それでは、現代日本人にとってのアポリアとは何なのだろうか。
 わたしは、西欧社会のように絶対者を想定しない汎神論的世界観を基層文化に持つ日本社会において、如何に「近代社会」が要請する自律的個人として自己意識を確立するかという課題こそが、現代日本が直面する最大のアポリアであると考えている。 その意味で、野崎綾子が現代日本のフェミニズム研究の最大の問題点として、その原点である自由・平等のような近代的理念を忘却した点にあると書いたことは正鵠を得ている。 現代日本にける最大の課題は、依然、自由・平等という近代の基本理念を如何に受容するか、なのである。
 戦後六〇年を経て、戦前の「目覚めた日本人」を苦しめていた封建的遺制は次第に失われつつある。しかし、それに代わる近代的共同体、近代的個人はまだ確立されていないというのが、現代日本の精神状況であるとわたしは考えている。
 しかも、日本では、丸山真男が批判したようにこれまでの思想や観念を歴史的、系統的に位置づけていこうとする知的伝統が形成されず 、その結果、松岡正剛が指摘するように「日本は古代から近世にいたるまで、『知』を意識しないで(あるいは意識できないままに)、いわば結果としての知をあれこれ演じてきた」 だけに留まり、その結果、日本以外の文化に属する人々に理解可能な形で日本文化を論理的に説明するという試みが十分に行われず、「近代」が要求する自律的個人の意識を日本文化の中で如何に定着させていくかという課題についても十分な論理的な探求が行われなかった。
 それでは、この「日本のアポリア」にとって、ヘーゲル哲学は如何なる意義を持っているのだろうか。
 テイラーによれば、ヘーゲルは西欧社会の近代化に伴う精神性の衰退という現象を、「精神の叙述」としての「論理学」の構築を通じて解決しようと試みた思想家である。わたしには、ヘーゲルの「ガイスト(宇宙的精神)」「弁証法」とは、近代社会が発展するなかで失われていくように思われた精神性を哲学としての論理学によって復活させるために考案されたものであると思われる。つまり、(1)ヘーゲルが目指したものは、近代化の中で見失われていく超越的な精神性(人間を超越した絶対的精神の実在)の再生であり、(2)ヘーゲルの「論理学」は、「精神」をその内在的、必然的な論理の展開のみによって明らかにすることによって、唯一絶対神の存在を前提とせずに、人間を超越した絶対的精神の実在と世界史はこの絶対的精神の発展過程であることを証明することを主要な目的の一つとしていたとわたしは考える。
 この仮説に関連して、中沢新一がヘーゲルは西欧社会において忘却されていた「思想」としての「方法」である「弁証法」を蘇らせることによって、「神話」を復活させようとした思想家であると評価している点は注目すべきである。 一方、速川治郎は、『大論理学』は「神の叙述」ではなく、人間の叙述であり、そういう形でしか神を論ずることができないと考えると主張する。 両者の主張は、わたしの考えでは実は極めて近いのであって、速川が述べている「神」とは、キリスト教が想定する世界を超越した存在としての「神」であり、速川が指摘するようにヘーゲルはそのような神の存在を認めていないのである。
 この仮説に基づき、この論文では、次の作業を行うこととしたい。
(1)現代西欧知識人で敬虔なカトリック教徒でもあるテイラーのヘーゲル哲学解釈を通じて、西欧社会が直面する「近代のアポリア」に対して、ヘーゲルが如何に取り組んだかを辿る。
(2)同時に、ヘーゲルの論理学はなぜ失敗したのか、をテイラーの解釈を踏まえつつ明らかにする。
(3)その上で、汎神論を基層文化として持つ日本社会が、自らのアポリアを克服するために、ヘーゲルの失敗から学ぶべきことは何かを検討する。
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by fwge1820 | 2005-05-30 17:15 | 東洋大学

コスモポリタニズム(3)   

国境を越えての慈善活動は脱近代の現象なのでしょうか?

日常生活の肯定(affirmation of ordinary life)という社会的価値観の根底には、一人ひとりの人間には固有の価値(尊厳)があり、人間は尊厳と権利において平等であるという近代社会特有の人間観があります。
しかし、17~18世紀に近代人権という考え方が西欧社会で生まれたとき、平等な尊厳を有する人間は、西欧社会の有産階級に属する白人男性だけでした。
全ての人間が尊厳と権利において平等であるというのは、ある意味で壮大なフィクションです。
その後の人類の歴史は、このフィクションを具現化するための戦いの歴史であったと捉えることも可能なような気がします。
前回も引用したイグナティエフは、現代の援助活動家、記者、戦争犯罪法廷の法律家、人権問題国連監視団員など、「どんなに遠く離れていようと他の人々の問題は自分たちみんなにとって重要だという漠然とした道義的理想」のために働く人々の増加に象徴される人権思想の国際的な普及を「権利革命」(Rights Revolution)と呼び、一九八九年の冷戦終結後、人類は初めて「すべての個人には権利があり、平等に扱われるべきである」というリベラリズムというフィクションの実現に真に取り組むことを余儀なくされているのである、と主張しています。イグナティエフによれば、リベラルな理想は四〇〇年前からあったが、すべての人間を対象とする平等の権利に基づく政治体制を樹立するという実験が始ったのは一九四五年以降のことに過ぎず、しかも一九八九年まで自由主義社会は外敵の存在から多大の社会的結合力を得ていたのです。イグナティエフは、一九八九年以降の世界を、リベラリズムが真の挑戦を受けている時代であると捉えています。(拙著『人権をひらく』23頁)
つまり、現代とはポスト近代の時代ではなく、近代の理念を徹底すべき時、あるいは普遍化すべき時期なのだと私は考えています。
わたし自身は、実はポストモダンの思想家をそれほど評価していません。
彼らは、近代思想の限界を唱えましたが、その代替物を提示できなかったと思っているからです。
この辺りのことに関心があるようでしたら、例えば西研『実存からの冒険』(毎日新聞社)『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)などが参考になります。また、バートランド・ラッセル『哲学入門』(ちくま学芸文庫)も、論理とか理性というもの価値を見直す上でたいへん役立つ本です。
要するに、平和とか人権という大きな物語の虚構性を暴くことにポストモダンの思想家たちは熱中したわけですが、その結果分かったのは、それにもかかわらず、人間は生きるために「大きな物語」を必要とするということだったと私は思っています。
小熊英二先生が『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)という本を書いておられますよね。結局、現代日本の大人が求めているのは、自分の人生に意味を与える「大きな物語」なのではないでしょうか?
しかし、ファシズムの狂気の歴史を経た私たちは、自らの国家や民族を絶対化するナショナリズムの精神に後退することはできません。
また、国家や民族という観念の虚構性が既に暴かれた現代において、そのような観念に自らの人生の意味づけを委ねることは既に不可能であろうと思います。
それでは、どのような生き方が可能になるのか?と考えたときに現在注目されているのが、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェ、ドストエフスキーなどの「それぞれの置かれた状況から出発し、限定された自分の状況を主体的に引き受けることによって自らの独自の人生の意味を発見していこう」という思想だと思います。
わたしが現在取り組んでいるチャールズ・テイラーは、この思想を「位置づけられた自由の人間学(anthropology of situated freedom)」と呼んでいます。
横浜会議でも、もし子どもや若者たちがそれぞれの思いを本当に打ち明け、理解し合おうとしなかったら、あんな混乱もその後の理解や協力も生まれなかったでしょう。
ほんとうの自分の思いを他者に伝えようとすることは、自分を理解することであると同時に、社会に参加する(他者を理解する)ということでもあることを、わたしは横浜会議で学んだと思います。
この生き方、自分の独自性を理解し実現するために、自分を他者に対してひらき、理解してもらおうと努めることこそ、近代的個人の生き方であり、そのような生き方が実現できる社会こそ自由で民主的な社会なのです。
その意味で、「どうせ自分の意見なんて誰も聴いてくれない。政府は、市民が何を言おうと自分がやりたいことを勝手にやるだけ。」と諦めている大人は、無意識のうちに自由で民主的な社会の基礎を掘り崩しているのです。そして、そのような考え方が社会の主流となってしまったような社会は安逸な社会ではあっても、「自由な社会」ではないというのが、わたしの考えなのです。
そして、本当の意味での「自由で民主的な社会」を世界に広めようというのが<ほんもの>のコスモポリタニズムであり、これこそ近代思想の<ほんもの>の継承者なのだと私は考えています。
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by fwge1820 | 2005-05-23 09:04 | わたしの仲間たち

続・続コスモポリタニズム   

コスモポリタニストが平和を求めるのは何故なのか?

たいへん鋭い問題意識だと思います。

昨日、東洋大学の大学院で「子どもの兵士」について講義をしました。
内戦が続くアフリカなどの国において、自分たちの村や町が戦場になってしまった結果、日常生活を支える価値観(争いは話し合いで解決する、とか子どもや老人は大切にする)が失われてしまったことが、「子どもの兵士」が生まれた大きな原因の一つであるという話をしました。
暴力によって何かを支配したり壊すよりも、幸せな家庭を作ったり、毎日の仕事に精勤するほうが価値のある生き方であるという考え方は、昔から全ての人に受け入れられてきた考え方ではありません。
「日常生活の肯定」というのは、近代になって初めて社会の支配的な価値観、倫理になったのです。
そして、9・11の経験を通じて、少なくとも米国の一部の人たちは、「この価値観を守り、米国国民の安全を保障するには、米国一国の安全だけを考えていては駄目だ、世界中を自由で民主的な社会に作り変える必要がある」と考えるようになりました。
米国政府がイラクへの武力攻撃を決定したとき、米国の良心的な知識人の大半は反対しました。
これに対して、当時米国で活動していた亡命イラク人たちは、「米国によるイラクへの軍事行動によってイラクが民主的な国になる可能性が1%でもあるのであれば、武力介入をすべきであると」と主張したそうです。
米国の知識人はこの主張に対して回答できなかったそうです。
これに対して、拙著『人権をひらく』でも紹介しているハーバード大学人権政策カー研究所の所長でもあるマイケル・イグナティエフは、「混乱から秩序を構築するために必要な力と意志と提供すべく、一時的な帝国による支配が正当化される」という理由で、米国のイラクに対する武力行使を容認したのです。(『人権をひらく』二四頁)
しかし、その後のイラク国内における事態の推移は、人道目的の軍事介入に対しては慎重であるべきだという、これまでの人類の経験を再確認する結果になっているように思います。
しかし、そのことは、米国の意図が間違っていたということではありません。
ウエスレヤン大学の女子学生が、ある日、わたしを訪ねて、平和について質問してきました。その話し合いの最後の頃、その女子学生はイラク戦争に対する日本政府の対応を批判して、「人から言われてやらさせれているだけのように見える」「日本の政策には自立性がない」と批判しました。
わたしは、「そういう自立性のない政府を選んでいるのは、日本国民なのだ」と話したのです。
自分の国を自分の力で守るということすら放棄して、米国の軍事力の下で安逸な平和を貪っている日本人に、自らの国民の命を犠牲にして、平和という理念の実現に努めている米国の政策を批判する資格はないのではないか?
日本のわたしたちは、平和=紛争のない状態と単純に考えていますが、実は平和にはいくつか種類があり、日本が現在享受している平和というのは、<ほんもの>の平和ではないのではないか、と思うのです。
昔、ヘブライ語で平和を意味するシャロームという言葉は、単に平安な状態という意味ではなく、エネルギーが場に満ち満ちている様子のことなのだ、と教わったことを思い出しました。
日本が戦後享受してきたと考える平和とは、その意味では、単なる安逸に過ぎなかったのであり、<ほんもの>の平和はなかったのではないか、と現代に生きる我々ははっきり断言すべきなのかも知れません。
そして、日本社会に現在巣食っている積極的な平和実現への意図や努力に対するシニカルな見方は、実は安逸を貪り、自立心を失った現代の日本人の心情を単に反映しただけのものなのかも知れません。
但し、イラク戦争において米国の介入を求めた当時の亡命イラク人たちは、実は自分たちがフセインに代わってイラクの支配権を獲得したいという欲望を「イラクにおける自由と民主主義の実現」という美辞麗句で正当化しただけであったことは、やはり、その後の経緯が証明しました。
イグナティエフは、「偶像と政治としての人権」という言葉を使いましたが、人権とは、まさに単なる綺麗事ではなく、厳しい国際政治の中で活用、悪用、誤用される中で生き残ってきた普遍的理念なのですね。
少し話しがそれたかも知れませんが、コスモポリタニストが平和を求めるのは、それが彼らが平和に世界の至る所で生きるための前提条件だからだという面もあるとわたしは思います。
世界中が平和で民主的な社会に転換しない限り、自分が住む社会の平和も保障されないという、厳しい現実認識が、その背景にはあるわけです。
米国の軍事力の傘の中から現実世界を眺めている日本人には、なかなか、この現実認識を浸透させるのは難しそうですよね。
Tommyさんは、どう思われますか?
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by fwge1820 | 2005-05-22 08:25 | わたしの仲間たち

5月28日、北九州市での講演会のレジュメ   

5月28日(土) に北九州で開催される KFAWカレッジ第1回プログラムで、わたしがお話をするのですが、その際のレジュメです。

「子どもの安全、日本の安全、世界の安全」
(1)日本の子どもたちは安全でしょうか?
  心の安全
  身体の安全
  生活空間の安全
(2)日本の社会は安全でしょうか?
  国内の安全:治安と経済
  日本を取り巻く東アジアの安全
(3)今の世界は安全でしょうか?
  9・11は、なぜ起きたのでしょうか?
  その結果、世界はどう変わったのでしょうか?
  あなたは、どんな世界を子どもたちに残したいですか?
【参考文献】
河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学』(岩波書店、2004年)
近藤敦『外国人の人権と市民権』(明石書店、2001年)
人間の安全保障委員会『安全保障の今日的課題』(朝日新聞社、2003年)
法務省『平成16年度版犯罪白書』(2004年11月5日)
武者小路公秀『人間安全保障論序説』(国際書院、2003年)
森田明彦『人権をひらく-チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年4月)
森田ゆり『子どもと暴力』(岩波書店、2000年)

【5月28日(土) 14:00-16:30 KFAWカレッジ第1回プログラム 】
主催:(財)アジア女性交流・研究フォーラム
話す人:森田 明彦
会場:北九州市立男女共同参画センター5F 小セミナールーム
(北九州市小倉北区大手町11-4)
(地図 http://www.kfaw.or.jp/access.html)
定員:50名(どなたでもどうぞ)
参加費:一般500円 学生300円(賛助会員は無料)
託児:6ヶ月~未就学児(おやつ代100円)
※4日前までにお申し込み下さい
申込:電話、FAX、Eメール、HPにて下記までどうぞ
:(財)アジア女性交流・研究フォーラム
〒803-0814 北九州市小倉北区大手町11-4 北九州市大手町ビル3F
Tel: 093-583-3434 Fax: 093-583-5195
E-mail: info@kfaw.or.jp URL: http://www.kfaw.or.jp
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by fwge1820 | 2005-05-16 08:01 | お知らせコーナー

コスモポリタニズムについて(続)   

tommyのコスモポリタニズムについて

tommyのコスモポリタニズムについて わたしの説明が、若干舌足らずだったかも知れません。
個人主義は、国家や民族、家族よりも個人に高い価値を置く考え方なので、コスモポリタニズムとは親和的です。
ただ、そのような個人に価値を置く考え方=一人ひとりの人生の構想を全て平等なものと考える考え方=リベラリズムは、実はフィクションに過ぎないのではないか、現実の世界ないし我々が認識する「世界」とは、実は様々な権力構造によって織り成される構成的現象に過ぎないのではないか、というのがポストモダン、特にフーコあたりが提起した問いであろうと思います。

今回の説明で、もう少しわたしの意図がクリアになりましたでしょうか?
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by fwge1820 | 2005-05-06 07:34 | わたしの仲間たち

Child Rights Revolution   

 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件から、2003年3月20日に開始されたイラク戦争、そして12月の自衛隊イラク派遣という一連の流れを、少し冷静に振り返ると、誰もが漠然とした不安を覚える。自分たちは何か誤った方向に流されつつあるのではないか、という不安感である。 この不安の理由ははっきりしている。現在の世界がどこに向おうとしているのか、誰も説明してくれないし、自分でも見極めがつかないからである。

 ところで、人間は、世界をあるがままに認識するのではない。ある枠組にしたがって、無意識のうちに情報を取捨選択して、判断を下し、行動するのだ。この枠組とは一つの世界観であり、ワールドモデルなわけだが、現在多くの日本人が共有しているワールドモデルは、どうやら世界の主要な動きを反映しないものとなっている。偏ったワールモデルに基づいて認識する世界像は、やはり偏っており、その判断、行動もおよそ的外れなものとなる。結果的に、自分たちは他の世界から孤立し、何か誤ったことをしているらしい、という不安が強まるのである。

 例えば、2003年8月19日にバグダットの国連本部が爆破されたあとも、100以上のNGOに所属する70人近い外国人スタッフと2000人のイラク人スタッフがイラク国内で人道援助活動を継続していたことを知っている日本人は何人いるだろうか。
 実はわたしも2004年3月、当時まだイラク国内で活動していた日本のNGO関係者による現地報告会に参加するまで、イラク国内で丸腰のNGOスタッフが活動していることを知らなかった。自衛隊のような軍隊しか活動できない危険な「イラク」というイメージは、いつの間にか、わたしたちの心の中に植えつけられていた。これは、単に政府による情報操作の結果という以上のものである。日本人のワールドモデルが、日常生活を送るイラクの一般市民に関する情報を受け付けなくなっているのだ。
 わたしは、2003年6月にイラクのバスラを訪れ、その経験を色々な所で話す機会があったが、「イラクの人たちは本当に争いを好まず、年長者を尊敬し、子どもを大切にする人たちです」と言うと、大半の人はびっくりする。多くの日本人が持っている好戦的で、血を好むイラク人というステレオタイプは、実は、マスコミを含む現代の日本人が無意識のうちに持っている、偏ったワールドモデルの反映なのである。このワールドモデルには、イラクにも、自分たちと同じような普通の人たちが暮らし、生きているという情報が入る扉がなくなっている。
 そして、毎年1月スイスのダボスで開催される世界経済フォーラムに対抗して、2001年から社会的に排除されてきた世界の弱者が結集して世界社会フォーラムが開かれるようになったこと、2004年のフォーラムがインドのムンバイで10万人を動員する大集会が実現したことを知る日本人は何人いるだろうか。
 グローバリゼーションは、市場経済の拡大・浸透とともに、市民社会の国際的台頭を生み出したが、後者の側面は現在の日本人には殆ど認識されていない。これこそ、現代日本のワールドモデルが歪んでいることの証拠である。

 それでは、何故、日本人のワールドモデルでは、世界的規模での市民社会の台頭と連帯という現象が見えてこないのだろうか。
 答えは簡単で、日本国内に市民社会がないからである。日本国内に市民社会をもたない日本人にとって、海外における市民社会運動なるものは、日常的な意識の上には上がってこない。あるいは、精々胡散臭いものにしか感じられないのだ。この度のイラクにおける日本人拘束事件を通じて浮かび上がったのは、非政府活動に対して、日本社会が持つ漠然とした不信感である。

 それでは、なぜ、日本には市民社会が育たなかったのだろうか?
 私の考えでは、その原因は1930年代にある。当時、第二次世界大戦に向けて進められた政府主導の国家総動員体制は、実は戦後も官僚主導の日本経済運営という形で存続した。その結果、日本社会では、「お上」依存の精神構造が解体されることなく、現在まで続いたのである。
 さらに、55年安保の確立によって、その「お上」は、自国の将来を米国に委ねることとした。米国の軍事力に依存して自国の安全保障を確保することを国策として決意した日本は、自らの力で国を守るという気概を失い、国の「かたち」を自らのあたまで考え、そのために行動するという自立心も失ったのである。
 その結果、与えられた枠組の中で自分の取り分だけを争うというエコノミックアニマル的な精神構造が一般化し、自立して、自らの夢の実現を目指す人間の足を引っ張ろうという「妬みの精神構造」が日本社会に蔓延したのだ。
 ここには、「お上」との距離で、それぞれの社会的地位を測る身分制社会的発想は存在しても、人間の基本的平等という意識に基づく市民社会が発展する余地はなかったのである。
 もちろん、この背景には、明治維新の際に当時の日本が西欧社会にキャッチアップすることに必死で、それまでの伝統、特に儒教、仏教といった思想を冷静に評価することなく切り捨ててしまったため、本来の伝統文化に基づいた近代日本文明を作り上げる機会を失ったという、後発国日本の宿命的な負の遺産が横たわっている。

 それでは、現代日本において「近代市民社会」を生み出すためには何が必要だろうか?
 「近代社会」とは、中世の身分制社会から解放された自立的な個人が自らの意志で形成した社会である。
 この近代社会の構成員である「近代的自己」の特徴は、「権利の主体」であることである。
 すなわち、近代以降、権利とはその所有者が権利を実現するために、それに基づいて行動すべき、あるいは行動することができる「主体的権利」と考えられるようになったのである。
 主体的権利の思想は、人に当然与えられるべき尊敬を確立し保障するために、人を積極的な協力者とみなす。
 つまり、個人には、それぞれの個性を自分の望むところにしたがって発展させる自由が与えられている、というのが、主体的権利の含意することなのである。

 この「権利主体」に18歳未満の子どもも含まれることを宣言したのが、「子どもの権利条約」である。この条約により、子どもは、もはや親の所有物や国家による管理の対象ではなく、自らの個性に従い、自らの人生を切り開く権利を持つと同時に、その実現のために行動すべき存在として国際的に認知されたのである。
 いかなる人間社会にも人間の生命、存在は尊重に値するという感覚は存在する。
 そして、一般的により高次の文明では、尊重の対象が次第に拡大して、全ての人間となっていくのが普通である。
 事実、近代社会における「人権主体」も、白人成人男性から、非白人、女性へと拡張されてきた。
 「子どもの権利条約」は、人類に残された「最後のマイノリティ」である「子ども」と「権利主体」としての資格を認めた画期的な条約なのである。
 
 「市民社会」の形成という、現代日本が取り組まなければならない「未完のプロジェクト」を成功させるには、この「子どもは権利主体」であるという「子どもの権利条約」の普及・実用化が有効な手段であると私は考えている。
 2002年5月に開催された「国連子ども特別総会」で宣言されたように、「子どもに相応しい世界は、全ての人々に相応しい世界」なのであり、「最後のマイノリティ」である「子ども」を権利主体として認めることが出来れば、全ての人々が「近代市民」、いわゆる「権利主体」となることが出来るのである。
 
現代日本が抱える擦り切れたワールドモデルを取り替えるには、先ず、「子どもの権利」の実現から始めるべきである。
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by fwge1820 | 2005-05-05 22:39 | 子どもの権利条約20周年

長崎の春奈さん   

下野春奈さんは、長崎出身。

高校時代は、「高校生一万人署名委員会」に参加。
世界平和という大志を抱き立命館アジア太平洋大学へ。
「出てから気がつく故郷長崎への愛。私は将来長崎がよりよい素敵なまちになることに貢献したい。」
ということで、現在、長崎で働くべく、奔走中だと思います。

「一万人署名に携わった高校3年生という時間は、今に至るまでの私の生き方に大きな影響を与えてきた。きっとこれからもそうだ」と語る春奈さん。

きっと、素晴らしい夢を実現してくれるものと思います。
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by fwge1820 | 2005-05-05 10:42 | わたしの仲間たち

中山実生(みおい)さん   

みおいさんも、2001年12月に横浜で開催された「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議(横浜会議)」の若者代表。

その後、インドのバンガロールに生活と活動の拠点を移し、2003年3月より、子ども達自身が、働く子どもやストリートチルドレンの写真を撮り、彼らの記録を残していくと同時に、この子ども写真家が子どもの権利について他の子どもに教えることが出来るように育っていくことを目指す「働く子どもの『遺産と伝説』キャンペーン」を立ち上げました。

みおいさんは、児童労働からの解放を訴えるミュージカル・バレエ『スパルタクス・リターンズ』の制作、公演にも関わっています。
劇の構成から展開、結末に至る全てが子どもたちとの議論に基づき制作され、ダンスの振り付けも子どもと若者によって行われ、そして子どもと若者自身によって演じられる『スパルタクス・リターンズ』は、2003年4月30日の世界児童労働者の日から8回の公演をバンガロールで行い、合計2万8千人の観客を動員。2004年1月にムンバイで開催された世界社会フォーラムでも公演され、同5月にイタリアのフィレンツェで開催された児童労働に関する世界子ども会議でも紹介され、強い印象を参加者に与えました。

スパルタクスは、紀元前1世紀に古代ローマ帝国に対して反旗を翻した奴隷剣闘士です。『スパルタクス・リターンズ』は、奴隷制撤廃のために立ち上がった古代の戦士スパルタクスに仮託して、現代の奴隷制である児童労働からの子どもの解放を訴える壮大な劇なのです。
この劇に出演している約200名の子どもと若者の多くは、かつて路上で暮らすストリートチルドレンや児童労働の犠牲者でした。

『スパルタクス・リターンズ』の原作者で、舞台監督を務めるジョン・デラバジさん(45歳)は、こう語っています。「劇のアイデアを子どもたちと発展させていく中で最も印象に残っているのは、この劇の中でスパルタクスの結末についての議論を行なったときです。スパルタクスは、苦しみの中にある子どもたちを解放し、勇気付ける歴史的英雄です。歴史における個人の役割とは何かという疑問を子どもたちは解こうとしました。その議論は約2ヶ月続きました。それは私にとってとてもパワフルな経験であり、子どもたちから多くを学びました。革命を起こす当事者である子どもたちが参加しているのが『スパルタクス・リターンズ』なのです。」

この「スパルタクス・リターンズ」の日本公演を実現したいというのが、みおいさんのもう一つの夢。
「日本の子どもたちと1週間位合宿しながら子どもの権利や児童労働について互いに学び、そして一緒に稽古をして劇を上演したいです。この公演を通して、日本の子どもたちがアジアそして他の大陸の働く子どもたち、ストリートチルドレンのことを知り一緒に解決の道を探ることで、同じ子どもとして、友達としてエンパワーされ、そしてエンパワーできる存在に成長して欲しい。また、劇やダンス、歌、写真といった芸術が社会を変えていくダイナミズムを持っていることを子どもたちに伝えたい」と、みおいさんは熱く語ってくれました。
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by fwge1820 | 2005-05-05 08:22 | わたしの仲間たち

平野裕二さんのこと   

子どもの権利に関する日本の第一人者です。
わたしも、色々と教えてもらっています。

最近、九州は福岡に居を移され、どうしているのかなぁ、って思っていたら、相変わらずご活躍の様子。

子どもの権利を巡る世界的動向をフォローしようと思ったら、平野さんのHPを定期的にチェックするのは一番です。
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by fwge1820 | 2005-05-05 08:05 | わたしの仲間たち

村田早耶香さんのこと   

村田さんは、かものはしプロジェクトという、カンボジアの子ども買春防止のためのNGOを立ち上げ、代表を務めている。

村田さんも、2001年12月に横浜で行われた「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」の若者代表の一人。

あの時、世界35カ国から集まった93名の子どもと若者と9泊10日を過ごしたことが、その後の自分の人生を変えたと思う。
子どもや若者ともっと直接関われるような仕事、そしてもっと本格的に人権について学び、活動してみたいという気持ちが、あの会議のあと、沸々と自分の心の中に湧いてきたのである。
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by fwge1820 | 2005-05-05 07:49 | わたしの仲間たち