カテゴリ:わたしの仲間たち( 11 )   

yossie from Tsukuba   

ヨッシーさんは、筑波大学の学生さんです。
若者たちの適職、天職探しを支援するNGOキャリナビつながりで、知り合いになりました。
エネルギッシュで、自分の生き方を真剣に探している様子を見ていると、わたしも元気になれます。
また、yossieさんのブログは、とっても深い内容を、自然な表現で分かり易く書いていて、わたしも今年の大学の入学式の後にあった父兄説明会で一部を紹介したのですが、とっても好評でした。

yossieさんの「ささいな感情を大切に」も、生きていく上でとっても大切なことを、さり気ない文章で表した、心に残るエッセイです。
自分の思いを表現することで、逆に自分のことが分かるようになるというのは、実に鋭い観察だと思います。
人間が生きるということは、自分だけにしかない固有の価値を発見し、実現することなわけですが、この自己実現というのは、実は意外に深く、難しいものなのですよね。
わたしが勉強している現代カナダの哲学者、チャールズ・テイラーも同じようなことを書いています。
近代以前の人間が、自分の価値を社会における立場とか人間を超えた宇宙的秩序の中における自分の位置に基づくものと考えていたのに対して、近代以降の人間は、自らの価値を固有の表現を通じて明らかにする自己規定的(self-defining)な自己となったというのが、テイラーの表現主義的人間観の核心です。
テイラーは、自己というものは、様々な表現を通じて明晰化されていると語っています。
その表現手段のなかには、言葉とか踊りとか、唄、身体表現などが含まれるわけです。

yossieさんが、どんな「自己」を掘り当てるのか、わたしも楽しみにしてます。
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by fwge1820 | 2005-06-12 09:28 | わたしの仲間たち

Tommyさんへ ブログの意味?   

人間が生きるということは<ほんもの>の自分を自分らしい自己表現の方法を通じて少しずつ明らかにしていくことなのだろうと思います。
しかし、チャールズ・テイラーのようなコミュニタリアンが明らかにしたように、そもそも自分あるいはヒトというものは、孤立しては存在し得ないのです。
「自己」という感覚自体が、近代に生み出された歴史特殊的な自己理解の形式です。
そして、そのような自己理解は、何らかの共同体の中でのみ可能なのです。
たった一人で本を読んだり、考えているときでも、ヒトは孤立していたり、他の人々との関係から遮断された「孤立した自己」であることは出来ません。
近代社会は、自立した自己という自己理解の形式を生み出しましたが、この自己は実は特定の共同体でのみ生存し、発達していくことが出来るのです。
共同体に位置づけられていなければ、そもそも他者とは異なった独自な存在としての「自己」という感覚は存在しないのです。
この事をビジュアル化したのが、ブログのもたらした意味だとわたしは思っています。

もちろん、ここで言う共同体とは、戦前の隣組とか戦後のカイシャのような、身分制、階層性の伝統的社会を指しているのではありません。
現代日本に生きる個人は、様々な集団に、様々なレベルで関わることによって生きています。
特定集団ないし組織が、その個人の信念や生き方を歪めたり、否定することは出来ないというのが、民主主義を標榜する現代日本社会の基本的ルールです。
そういう基本的な出入りの自由を前提とした多様な共同体への参画こそ、現代的(近代的)自己の「あり方」であり、そのような「あり方」無しには、「近代的自己」という自己理解の形式は存在し得ないのです。
ブログは、この他者との関係性の中に位置づけられた表現する存在としての「自己」をビジュアル化したために、これだけ普及したのだとわたしは思っています。
この辺りの議論は、拙著『人権をひらく』(藤原書店)の第4章「言語論的転回と人権の根拠」および第7章「子どもと人権」に書きました。
ご一読いただければ幸いです。
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by fwge1820 | 2005-06-08 07:32 | わたしの仲間たち

コスモポリタニズム(3)   

国境を越えての慈善活動は脱近代の現象なのでしょうか?

日常生活の肯定(affirmation of ordinary life)という社会的価値観の根底には、一人ひとりの人間には固有の価値(尊厳)があり、人間は尊厳と権利において平等であるという近代社会特有の人間観があります。
しかし、17~18世紀に近代人権という考え方が西欧社会で生まれたとき、平等な尊厳を有する人間は、西欧社会の有産階級に属する白人男性だけでした。
全ての人間が尊厳と権利において平等であるというのは、ある意味で壮大なフィクションです。
その後の人類の歴史は、このフィクションを具現化するための戦いの歴史であったと捉えることも可能なような気がします。
前回も引用したイグナティエフは、現代の援助活動家、記者、戦争犯罪法廷の法律家、人権問題国連監視団員など、「どんなに遠く離れていようと他の人々の問題は自分たちみんなにとって重要だという漠然とした道義的理想」のために働く人々の増加に象徴される人権思想の国際的な普及を「権利革命」(Rights Revolution)と呼び、一九八九年の冷戦終結後、人類は初めて「すべての個人には権利があり、平等に扱われるべきである」というリベラリズムというフィクションの実現に真に取り組むことを余儀なくされているのである、と主張しています。イグナティエフによれば、リベラルな理想は四〇〇年前からあったが、すべての人間を対象とする平等の権利に基づく政治体制を樹立するという実験が始ったのは一九四五年以降のことに過ぎず、しかも一九八九年まで自由主義社会は外敵の存在から多大の社会的結合力を得ていたのです。イグナティエフは、一九八九年以降の世界を、リベラリズムが真の挑戦を受けている時代であると捉えています。(拙著『人権をひらく』23頁)
つまり、現代とはポスト近代の時代ではなく、近代の理念を徹底すべき時、あるいは普遍化すべき時期なのだと私は考えています。
わたし自身は、実はポストモダンの思想家をそれほど評価していません。
彼らは、近代思想の限界を唱えましたが、その代替物を提示できなかったと思っているからです。
この辺りのことに関心があるようでしたら、例えば西研『実存からの冒険』(毎日新聞社)『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)などが参考になります。また、バートランド・ラッセル『哲学入門』(ちくま学芸文庫)も、論理とか理性というもの価値を見直す上でたいへん役立つ本です。
要するに、平和とか人権という大きな物語の虚構性を暴くことにポストモダンの思想家たちは熱中したわけですが、その結果分かったのは、それにもかかわらず、人間は生きるために「大きな物語」を必要とするということだったと私は思っています。
小熊英二先生が『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)という本を書いておられますよね。結局、現代日本の大人が求めているのは、自分の人生に意味を与える「大きな物語」なのではないでしょうか?
しかし、ファシズムの狂気の歴史を経た私たちは、自らの国家や民族を絶対化するナショナリズムの精神に後退することはできません。
また、国家や民族という観念の虚構性が既に暴かれた現代において、そのような観念に自らの人生の意味づけを委ねることは既に不可能であろうと思います。
それでは、どのような生き方が可能になるのか?と考えたときに現在注目されているのが、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェ、ドストエフスキーなどの「それぞれの置かれた状況から出発し、限定された自分の状況を主体的に引き受けることによって自らの独自の人生の意味を発見していこう」という思想だと思います。
わたしが現在取り組んでいるチャールズ・テイラーは、この思想を「位置づけられた自由の人間学(anthropology of situated freedom)」と呼んでいます。
横浜会議でも、もし子どもや若者たちがそれぞれの思いを本当に打ち明け、理解し合おうとしなかったら、あんな混乱もその後の理解や協力も生まれなかったでしょう。
ほんとうの自分の思いを他者に伝えようとすることは、自分を理解することであると同時に、社会に参加する(他者を理解する)ということでもあることを、わたしは横浜会議で学んだと思います。
この生き方、自分の独自性を理解し実現するために、自分を他者に対してひらき、理解してもらおうと努めることこそ、近代的個人の生き方であり、そのような生き方が実現できる社会こそ自由で民主的な社会なのです。
その意味で、「どうせ自分の意見なんて誰も聴いてくれない。政府は、市民が何を言おうと自分がやりたいことを勝手にやるだけ。」と諦めている大人は、無意識のうちに自由で民主的な社会の基礎を掘り崩しているのです。そして、そのような考え方が社会の主流となってしまったような社会は安逸な社会ではあっても、「自由な社会」ではないというのが、わたしの考えなのです。
そして、本当の意味での「自由で民主的な社会」を世界に広めようというのが<ほんもの>のコスモポリタニズムであり、これこそ近代思想の<ほんもの>の継承者なのだと私は考えています。
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by fwge1820 | 2005-05-23 09:04 | わたしの仲間たち

続・続コスモポリタニズム   

コスモポリタニストが平和を求めるのは何故なのか?

たいへん鋭い問題意識だと思います。

昨日、東洋大学の大学院で「子どもの兵士」について講義をしました。
内戦が続くアフリカなどの国において、自分たちの村や町が戦場になってしまった結果、日常生活を支える価値観(争いは話し合いで解決する、とか子どもや老人は大切にする)が失われてしまったことが、「子どもの兵士」が生まれた大きな原因の一つであるという話をしました。
暴力によって何かを支配したり壊すよりも、幸せな家庭を作ったり、毎日の仕事に精勤するほうが価値のある生き方であるという考え方は、昔から全ての人に受け入れられてきた考え方ではありません。
「日常生活の肯定」というのは、近代になって初めて社会の支配的な価値観、倫理になったのです。
そして、9・11の経験を通じて、少なくとも米国の一部の人たちは、「この価値観を守り、米国国民の安全を保障するには、米国一国の安全だけを考えていては駄目だ、世界中を自由で民主的な社会に作り変える必要がある」と考えるようになりました。
米国政府がイラクへの武力攻撃を決定したとき、米国の良心的な知識人の大半は反対しました。
これに対して、当時米国で活動していた亡命イラク人たちは、「米国によるイラクへの軍事行動によってイラクが民主的な国になる可能性が1%でもあるのであれば、武力介入をすべきであると」と主張したそうです。
米国の知識人はこの主張に対して回答できなかったそうです。
これに対して、拙著『人権をひらく』でも紹介しているハーバード大学人権政策カー研究所の所長でもあるマイケル・イグナティエフは、「混乱から秩序を構築するために必要な力と意志と提供すべく、一時的な帝国による支配が正当化される」という理由で、米国のイラクに対する武力行使を容認したのです。(『人権をひらく』二四頁)
しかし、その後のイラク国内における事態の推移は、人道目的の軍事介入に対しては慎重であるべきだという、これまでの人類の経験を再確認する結果になっているように思います。
しかし、そのことは、米国の意図が間違っていたということではありません。
ウエスレヤン大学の女子学生が、ある日、わたしを訪ねて、平和について質問してきました。その話し合いの最後の頃、その女子学生はイラク戦争に対する日本政府の対応を批判して、「人から言われてやらさせれているだけのように見える」「日本の政策には自立性がない」と批判しました。
わたしは、「そういう自立性のない政府を選んでいるのは、日本国民なのだ」と話したのです。
自分の国を自分の力で守るということすら放棄して、米国の軍事力の下で安逸な平和を貪っている日本人に、自らの国民の命を犠牲にして、平和という理念の実現に努めている米国の政策を批判する資格はないのではないか?
日本のわたしたちは、平和=紛争のない状態と単純に考えていますが、実は平和にはいくつか種類があり、日本が現在享受している平和というのは、<ほんもの>の平和ではないのではないか、と思うのです。
昔、ヘブライ語で平和を意味するシャロームという言葉は、単に平安な状態という意味ではなく、エネルギーが場に満ち満ちている様子のことなのだ、と教わったことを思い出しました。
日本が戦後享受してきたと考える平和とは、その意味では、単なる安逸に過ぎなかったのであり、<ほんもの>の平和はなかったのではないか、と現代に生きる我々ははっきり断言すべきなのかも知れません。
そして、日本社会に現在巣食っている積極的な平和実現への意図や努力に対するシニカルな見方は、実は安逸を貪り、自立心を失った現代の日本人の心情を単に反映しただけのものなのかも知れません。
但し、イラク戦争において米国の介入を求めた当時の亡命イラク人たちは、実は自分たちがフセインに代わってイラクの支配権を獲得したいという欲望を「イラクにおける自由と民主主義の実現」という美辞麗句で正当化しただけであったことは、やはり、その後の経緯が証明しました。
イグナティエフは、「偶像と政治としての人権」という言葉を使いましたが、人権とは、まさに単なる綺麗事ではなく、厳しい国際政治の中で活用、悪用、誤用される中で生き残ってきた普遍的理念なのですね。
少し話しがそれたかも知れませんが、コスモポリタニストが平和を求めるのは、それが彼らが平和に世界の至る所で生きるための前提条件だからだという面もあるとわたしは思います。
世界中が平和で民主的な社会に転換しない限り、自分が住む社会の平和も保障されないという、厳しい現実認識が、その背景にはあるわけです。
米国の軍事力の傘の中から現実世界を眺めている日本人には、なかなか、この現実認識を浸透させるのは難しそうですよね。
Tommyさんは、どう思われますか?
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by fwge1820 | 2005-05-22 08:25 | わたしの仲間たち

コスモポリタニズムについて(続)   

tommyのコスモポリタニズムについて

tommyのコスモポリタニズムについて わたしの説明が、若干舌足らずだったかも知れません。
個人主義は、国家や民族、家族よりも個人に高い価値を置く考え方なので、コスモポリタニズムとは親和的です。
ただ、そのような個人に価値を置く考え方=一人ひとりの人生の構想を全て平等なものと考える考え方=リベラリズムは、実はフィクションに過ぎないのではないか、現実の世界ないし我々が認識する「世界」とは、実は様々な権力構造によって織り成される構成的現象に過ぎないのではないか、というのがポストモダン、特にフーコあたりが提起した問いであろうと思います。

今回の説明で、もう少しわたしの意図がクリアになりましたでしょうか?
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by fwge1820 | 2005-05-06 07:34 | わたしの仲間たち

長崎の春奈さん   

下野春奈さんは、長崎出身。

高校時代は、「高校生一万人署名委員会」に参加。
世界平和という大志を抱き立命館アジア太平洋大学へ。
「出てから気がつく故郷長崎への愛。私は将来長崎がよりよい素敵なまちになることに貢献したい。」
ということで、現在、長崎で働くべく、奔走中だと思います。

「一万人署名に携わった高校3年生という時間は、今に至るまでの私の生き方に大きな影響を与えてきた。きっとこれからもそうだ」と語る春奈さん。

きっと、素晴らしい夢を実現してくれるものと思います。
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by fwge1820 | 2005-05-05 10:42 | わたしの仲間たち

中山実生(みおい)さん   

みおいさんも、2001年12月に横浜で開催された「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議(横浜会議)」の若者代表。

その後、インドのバンガロールに生活と活動の拠点を移し、2003年3月より、子ども達自身が、働く子どもやストリートチルドレンの写真を撮り、彼らの記録を残していくと同時に、この子ども写真家が子どもの権利について他の子どもに教えることが出来るように育っていくことを目指す「働く子どもの『遺産と伝説』キャンペーン」を立ち上げました。

みおいさんは、児童労働からの解放を訴えるミュージカル・バレエ『スパルタクス・リターンズ』の制作、公演にも関わっています。
劇の構成から展開、結末に至る全てが子どもたちとの議論に基づき制作され、ダンスの振り付けも子どもと若者によって行われ、そして子どもと若者自身によって演じられる『スパルタクス・リターンズ』は、2003年4月30日の世界児童労働者の日から8回の公演をバンガロールで行い、合計2万8千人の観客を動員。2004年1月にムンバイで開催された世界社会フォーラムでも公演され、同5月にイタリアのフィレンツェで開催された児童労働に関する世界子ども会議でも紹介され、強い印象を参加者に与えました。

スパルタクスは、紀元前1世紀に古代ローマ帝国に対して反旗を翻した奴隷剣闘士です。『スパルタクス・リターンズ』は、奴隷制撤廃のために立ち上がった古代の戦士スパルタクスに仮託して、現代の奴隷制である児童労働からの子どもの解放を訴える壮大な劇なのです。
この劇に出演している約200名の子どもと若者の多くは、かつて路上で暮らすストリートチルドレンや児童労働の犠牲者でした。

『スパルタクス・リターンズ』の原作者で、舞台監督を務めるジョン・デラバジさん(45歳)は、こう語っています。「劇のアイデアを子どもたちと発展させていく中で最も印象に残っているのは、この劇の中でスパルタクスの結末についての議論を行なったときです。スパルタクスは、苦しみの中にある子どもたちを解放し、勇気付ける歴史的英雄です。歴史における個人の役割とは何かという疑問を子どもたちは解こうとしました。その議論は約2ヶ月続きました。それは私にとってとてもパワフルな経験であり、子どもたちから多くを学びました。革命を起こす当事者である子どもたちが参加しているのが『スパルタクス・リターンズ』なのです。」

この「スパルタクス・リターンズ」の日本公演を実現したいというのが、みおいさんのもう一つの夢。
「日本の子どもたちと1週間位合宿しながら子どもの権利や児童労働について互いに学び、そして一緒に稽古をして劇を上演したいです。この公演を通して、日本の子どもたちがアジアそして他の大陸の働く子どもたち、ストリートチルドレンのことを知り一緒に解決の道を探ることで、同じ子どもとして、友達としてエンパワーされ、そしてエンパワーできる存在に成長して欲しい。また、劇やダンス、歌、写真といった芸術が社会を変えていくダイナミズムを持っていることを子どもたちに伝えたい」と、みおいさんは熱く語ってくれました。
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by fwge1820 | 2005-05-05 08:22 | わたしの仲間たち

平野裕二さんのこと   

子どもの権利に関する日本の第一人者です。
わたしも、色々と教えてもらっています。

最近、九州は福岡に居を移され、どうしているのかなぁ、って思っていたら、相変わらずご活躍の様子。

子どもの権利を巡る世界的動向をフォローしようと思ったら、平野さんのHPを定期的にチェックするのは一番です。
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by fwge1820 | 2005-05-05 08:05 | わたしの仲間たち

村田早耶香さんのこと   

村田さんは、かものはしプロジェクトという、カンボジアの子ども買春防止のためのNGOを立ち上げ、代表を務めている。

村田さんも、2001年12月に横浜で行われた「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」の若者代表の一人。

あの時、世界35カ国から集まった93名の子どもと若者と9泊10日を過ごしたことが、その後の自分の人生を変えたと思う。
子どもや若者ともっと直接関われるような仕事、そしてもっと本格的に人権について学び、活動してみたいという気持ちが、あの会議のあと、沸々と自分の心の中に湧いてきたのである。
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by fwge1820 | 2005-05-05 07:49 | わたしの仲間たち

なみこのフィリピン   

横浜会議の若者代表だった奈美子さんが、先日フィリピンから帰国した。

あの会議は、自分にとっても大きな転機だったという気がする。あの時に学んだこと、心に刻まれたことが、そのあと、何年も経って自分の生き方に反映されている気がする。

もう一回、あんな風に子どもたち、若者たちと熱く語ってみたいなぁ、っていう思いが、実は今回の転職の最大の原動力だったと思うのだ。
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by fwge1820 | 2005-04-30 16:15 | わたしの仲間たち