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東洋大学大学院:2009年度の講義のシラバスです   

今年も、まもなく東洋大学大学院での講義が始まります。
この講義も、2005年度に始めて、これで5年目。
受講者は児童福祉事務所職員やソーシャルワーカーとして働いている社会人大学院生の方が大半で、私自身にとってもたいへん勉強になっています。

今年は、昨年11月にブラジルのリオデジャネイロで開催された第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議のお話しとか、日本における外国人労働者の子どもの人権のこととか、いろいろと新たな人権の課題に取り組んだので、そのあたりのことも受講生の皆さんとシェアしてみたいと思っている。
もちろん、2007年秋より取り組んでいるチャールズ・テイラー博士の『ある世俗の時代』に関連した、宗教と近代化、多文化主義の問題もお話しするつもりである。

ということで、2009年度東洋大学大学院の講義、まもなく始まります。

【科目名】
地域社会システム特論XI

【サブタイトル】
日本のわたし達にとっての国際人権

【講義の目的】
自分が行きたいところへ出掛け、自分がやりたいことを仕事にして、自分が好きになったひとと暮らす。ひとが自分らしい人生を生きるためには、さまざまな「人権」が保障されていなければなりません。
しかし、全ての人は尊厳と権利において平等であるという人権の思想が世界的に公式に認められたのは、わずか60年前のことに過ぎません。この講義では、国内外の様々な事例、そして参加者の日常的な経験に基づき、西欧社会で誕生した人権という社会規範の特徴と非西欧社会における適用可能性をその思想史的背景にまで遡って考えてみるという試みに挑戦します。
この講義を通じて、受講者の皆さんが人権という社会規範の歴史、特質を把握し、人権という考え方を日常生活に生かす考え方を育むことが出来るようになることを期待しています。

【講義スケジュール】
第1回 オリエンテーションと子どもの権利の世界を巡る動きの紹介

第2回 ニーズ言語と権利言語:マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』大江洋『関係的権利論』

第3回 イラク戦争と人権:拙論「マイケル・イグナティエフの人権論的転回?」

第4回 児童ポルノを中心とした子どもの商業的性的搾取問題について:拙論“Social Imaginaries of Ubiquitous Society and Human Rights”

第5回 人身売買問題:拙著『表現アートセラピーを応用したリサーチ手法の可能性―人身売買被害者の<ほんもの>の語り』

第6回 人身売買問題:拙著『人権をひらく』第8章他

第7回 子どもの権利主体性:拙論「チャールズ・テイラーの全体論的個人主義と人権主体論」『経済社会学会年報』第26号

第8回 人間中心主義と主体的権利論の歴史:チャールズ・テイラー『自己の諸源泉』

第9回 日本人にとっての人権:拙論「「自己」の身体―〈ほんもの〉の身体性」『社学研論集』第9号

第10回 多文化主義と人権<多民族国家日本への途>:拙論「マルチカルチュラリズムと現代日本―チャールズ・テイラーの『マルチカルチュラリズム』を中心に―」『社学研論集』第7号増補版

第11回 宗教と人権:拙論「西欧社会における「世俗化」への路―チャールズ・テイラー『ある世俗の時代』―」『社学研論集』第11号

第12回 日本人にとっての人権:2008年洞爺湖サミットを振り返って

第13回~第15回
参加者の発表に基づく討論

【テキスト】
森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年)

【参考資料】
ルードルフ・フォン・イェーリンング『権利のための闘争』(岩波文庫)
マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(風行社、1999年)
マイケル・イグナティエフ『人権の政治学』(風行社、2006年)
マイケル・イグナティエフ『ライツレボリューション』(風行社、2007年)
チャールズ・テイラー『マルチカルチュラリズム』(岩波書店、2002年)
チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』(産業図書、2004年)
森田ゆり『エンパワメントと人権』(解放出版社、2002年)
大久保真紀『プンとミーチャのものがたり―こどもの権利を買わないで』(自由国民社、2000年)
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by fwge1820 | 2009-03-14 07:16 | 東洋大学

2008年度学部授業の開講に向けて   

2008年4月8日より開講される東洋大学学部2年生向けの「現代社会福祉特別講義IV」のシラバスはこんな感じです。

【科目名】 
現代社会福祉特別講義IV

【テーマ・サブタイトル】(全角100文字まで)
子どもの権利から見た現代世界の課題とその歴史的背景について

【講義の目的・内容、到達目標】(全角1000文字まで)
我々が今日暮らす「近代社会(modern society)」には特有の道徳秩序が存在している。人権理念は、この近代道徳秩序の精華であると同時に表象でもある。
この講義では、現代社会の具体的な人権の課題を取り上げつつ、それぞれの課題を分析するために必要な人権理念の基本的なパラダイム(権利主体としての自己観)を身に付けることを目的とする。
子どもの兵士、子どもの人身売買など世界各地で続く深刻な子どもの権利侵害は何故起きるのか?その解決のために「人権」という理念は有効なのか?
この講義では、現代の世界的課題である経済格差、地球環境問題、武力紛争について、子どもの兵士、子どもの人身売買などの具体的な事例に即して考えるための基礎的な知識を教授する。
また、これらの課題を解決するための規範としての人権がどのように生まれ、発展してきたか、を概観するための思想史的な基礎知識を教授する。
その上で、受講者による討議とレポート作成を通じて、基本的な分析・表現能力の向上を図る。

【講義スケジュール】(全角1000文字まで)
第1回 子どもの権利を巡る最近の動き
ニーズに基づくアプローチから権利基盤アプローチへの移行
第2回 「人身売買」問題に関する講義
フィリピンとカンボジアでのリサーチワークショップの結果を中心に
第3回 「環境と人権」に関する講義
環境難民について
第4回 「武力紛争と人権」に関する講義
子どもの兵士問題を中心に
第5回 「人権」の歴史に関する講義(1)+学生との討議
近代社会における「権利主体としての自己」の誕生:チャールズ・テイラー『自己の諸
源泉』を中心に
第6回 「人権」の歴史に関する講義(2)+学生との討議
現代社会の課題:チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』を中心に
第7回 「人権」の制度に関する講義(1)+学生との討議
子どもの権利委員会について:日本政府報告書を巡る動き
第8回 「人権」に制度に関する講義(2)+学生との討議
人権保障制度の概略
第9回 「人権」の今日的課題に関する講義(1)+学生との討議
アジア的価値と人権
第10回 「人権」の今日的課題に関する講義(2)+学生との討議
他国への軍事介入と人権:イラク戦争
第11回 「人権」の今日的課題に関する講義(3)+学生との討議
多文化主義と人権:チャールズ・テイラー『マルチカルチュラリズム』を中心に
第12回 「人権」の今日的課題に関する講義(4)+学生との討議
ユビキタス社会の人権
第13回 まとめと振り返り

【指導方法】(全角1000文字まで)
毎回、基本的な知識に関する講義を行った上で、受講者による討議を行い、毎回授業の最後に全員から小レポート(A4で1枚)を作成・提出してもらう。
受講者は具体的な人権の課題を選択し、同課題に関するレポート(3000字前後)を作成、提出する。

【成績評価の方法・基準】(全角600文字まで)
小レポート 40%
授業への参加度 30%
最終レポート 30%

【テキスト】(全角600文字まで)
森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年4月)

【参考書】(全角600文字まで)
森田明彦『表現アートセラピーを応用したリサーチ手法の可能性―人身売買被害者の<ほんもの>の語り』(財団法人アジア女性交流・研究フォーラム、2007年)
チャールズ・テイラー、田中智彦訳『<ほんもの>という倫理』(産業図書、2004年)
チャールズ・テイラー、佐々木毅他訳『マルチカルチュラリズム』(岩波書店、2002年)
チャールズ・テイラー、渡辺義雄訳『ヘーゲルと近代社会』(岩波書店、2000年)
また、各講義に関連する参考資料(英文を含む)リストは、講義の初日に配布する。
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by fwge1820 | 2008-03-20 08:19 | 東洋大学

2007年度開講にあたって   

今年もいよいよ、東洋大学大学院社会学研究科&福祉社会デザイン研究科の講義が始まる。
今年の「国際社会福祉問題論」のサブタイトルは「体験から考える自分らしく生きる権利」。

【講義の目的、内容】
1945年以来、私たちは基本的人権の尊重、国民主権、そして平和主義を原則とする憲法の下で生きてきました。
けれども、個人の尊厳に基づく基本的人権の尊重という考え方は本当に私たちの生活世界の哲学として根付いたでしょうか?
「権利ばかり教えるから、自己主張の強い子どもに育つのだ」
こんな批判をどこかで聴いたことはありませんか?
この講義では、近代社会に生まれた「人権という思想」を、具体的な事例に基づき、根源的に考えるという試みに挑戦します。
わたしは、財団法人日本ユニセフ協会広報室長として、イラク、スーダン、東チモール、カンボジア、モルドバ等で起きている人権侵害の実情を見てきました。
自分が生き残るために人を殺したスーダンの元子どもの兵士。
生まれたばかりの赤ん坊の治療費のために上の娘を売ったカンボジアの母親。
戦争のために学校に行けなくなったイラクの子ども。
フィリピン人の元エンターテイナーと日本人の間に生まれた子ども。
一方、一見豊かに見える日本社会の中にも様々な問題があります。
子どもの頃に原爆で全ての家族を失った日本人の女性。
肉親から性的虐待を受けて子どもたち。
両親の争い、離婚によって深い心の傷を負った子どもたち。
このような問題に対して、「人権という思想」はどのような解決策を提示することが出来るのでしょうか?
この講義では、近現代人権の歴史的、思想的背景まで遡って、思想としての人権の可能性を考えていきたいと思います。

【講義スケジュール】
1回 子どもの権利を巡る世界的な流れについて講義します。
2回 わたしが2005年より取り組んできた研究調査プロジェクト「表現アートセラピーを応用したリサーチ手法―人身売買被害者の〈ほんもの〉の語り」に基づいて、フィリピン、カンボジアを中心とする人身売買の実状と世界の取組について講義します。
3回-8回
報告者を決めて 『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年)を読んでいきます。「人権」という考え方が近代西欧社会において如何に誕生したのか、そして、この考え方はどんな特徴を持っていて、現在、どのような問題に直面しているのか、を具体的事例に基づき考えていきます。
9回―15回
受講者の実体験を踏まえた報告と、参加者による討論、私の補足説明によって講義を進めたいと思います。

【参考資料】
ルードルフ・フォン・イェーリンング『権利のための闘争』(岩波文庫)
マイケル・イグナティエフ『人権の政治学』(風行社、2006年)
チャールズ・テイラー『ヘーゲルと近代社会』(岩波書店、2000年)
チャールズ・テイラー『マルチカルチュラリズム』(岩波書店、2002年)
チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』(産業図書、2004年)
森田ゆり『エンパワメントと人権』(解放出版社、2002年)
小熊英二『〈癒し〉のナショナリズム』((慶應義塾大学出版会、2004年)
大久保真紀『プンとミーチャのものがたり―こどもの権利を買わないで』(自由国民社、2000年)

【テキスト】
森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年)
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by fwge1820 | 2007-04-02 21:05 | 東洋大学

アマルティア・センの理論   

アマルテイィア・セン(Amartya Sen)
1933年生まれの経済学・哲学者で、社会的選択の理論、厚生経済学、開発経済学、所得分配、公共的選択および哲学の分野で多大の研究を発表している 。

機能(functioning)と潜在能力(capability)
個人の福祉(well-being)=生活の良さ
生活=相互に関連した「機能」の集合
機能=ある状態になったり、何かをすること
潜在能力=ひとが行うことが出来る様々な「機能」の集合=様々な生活を送る個人の自由を反映した機能のベクトルの集合=個人の福祉に直接価値のある機能を達成する自由を反映したもの
→個人の主体的自由を個人の福祉の度合を評価する際に明示的に考慮できる出来る理論的枠組

エイジェンシー理論
センは、人が自分自身の福祉(well-being)以外の価値や目的を持つ存在であり、これを「(人の)エイジェンシーとしての側面」と呼び、「福祉の側面」と区別し、一人の人をいずれかの側面に限定してしまうことは出来ないとする 。
「エイジェンシーとしての達成」とは、その人が追求する理由のある価値や目的を実現することであり、必ずしもその人自身の福祉と直接結びついているものではない。
「エイジェンシーとしての達成」は、さらに「実現されたエイジェンシーの成功(realized agency success)」と「手段としてのエイジェンシーの成功(instrumental agency success)」に区別することができる。前者は、エイジェンシーとして有する価値や目的の実現を指し、その人が、その実現にいかなる役割を果たしたか、とは関係がない。後者は、逆に、その実現にあたって、その個人がいかなる役割を果たしか、ということ自体を問題とする。例えば、母国の独立または飢餓の除去について、これらの目的が実現された場合、前者の意味での成功と評価し得る。一方、「手段としてのエイジェンシーの成功」と評価し得るか否かは、その人がいかなる役割を果たしたか、に拠る。
この二つの「成功」の区別は、「自由」の観念と深く関係している。ここで、センは、「コントロールとしての自由」と「有効な自由」を区別する。「コントロールの自由」とは、「手段としてのエイジェンシーの成功」にのみ関係する。つまり、ある目的を実現するために、その人自身が積極的な役割を果たすということを可能とするのが「コントロールの自由」であり、この場合、「実現された成功」という、もっと広い観点から見た「有効な自由」は問題とはならない。例えば、校正者が作者の校正刷りをチェックする場合、校正者が作者の意図の範囲内で校正作業を行っている限り、作者の「コントロールの自由」は限定されても、「有効な自由」は損なわれてはいないのである。
つまり、センは、エイジェンシーを個人が重要と考える目標や価値を実現する能力と考えて、その能力と自由の関連性を論じているのである。
センのエイジェンシー論は、目標や価値を持ち、その実現を目指す存在としての人の側面に焦点を当てたものなのである。

【参考文献】
アマルティア・セン、鈴村興太郎訳『福祉の経済学』(岩波書店、1998年)
Amartya Sen, Inequality Reexamined, Oxford University Press, 1992. 池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳『不平等の再検討』(岩波書店、1999年)
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by fwge1820 | 2006-05-20 10:16 | 東洋大学

本年度最初の講義(案)―「人権工学」とは何か?   

人権工学(Human Rights Engineering)とは何か?

 私たちが生きる現代日本は「近代社会」と呼ばれています。
 近代社会とは、巨大な工業力、ぼうだいな交通通信網、完備した行政機構、教育制度、高い平均年齢、ひくい死亡率、発達した学問、芸術などを特徴とする社会です(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1983年)。

 この「近代社会」は、特定の集団的社会意識、いわゆる「社会像(social imaginaries)」によって支えられています(Charles Taylor, Modern Social Imaginares ,Duke University Press, 2004)。
 テイラーによれば、「社会像」とは、「社会理論」よりも広い概念で、第一にある社会に生きる普通の人々が自らの「社会的環境(social surroundings)」をどのように想像しているか、に焦点を合わせた用語であり、第二に「社会理論」が一般に少数の人々によって共有されているものであるのに対して、「社会像」は必ずしも社会全体ではないが、より多くの人々によって共有されたものであり、第三に、「社会像」は共通の慣習、広範囲に共有された正当性の感覚を可能とする共通理解です。

 わたしは、「近代社会」を支える「近代社会像」の基層理念は「権利主体としての自己」であると考えています。
 テイラーは、「近代」を「自己(self)」を理解する基本的なカテゴリーの革命と捉える近代史観を提起しました(C. Taylor, Hegel, Cambridge University Press, 1975)。
 すなわち、近代以前の自己が宇宙的秩序との関係で自らを規定していたのに対して、近代的自己とは自己規定的(self-defining)であるとするのが、テイラーの洞察なのです。
 一方、テイラーは「近代」と「前近代」の違いを、法の様式の観点から捉えます。
テイラーによれば、近代以前にも個人の生命に対する普遍的で自然的な権利という観念は存在しましたが、17世紀の自然法理論は、生命や自由に対する権利が何らかの「法の下」にあるものとする従来の考え方を、権利の所有者がその権利を実効的なものとするために行動すべき、そして行動し得る何かという主体的権利の観念へと転換しました。
 生命や自由への権利は、近代社会以前には外部から与えられるものであったのに対して、近代の主体的権利の観念の下では、権利を実現する役割は当人に与えられることとなったのです。17世紀の自然法理論は、権利言語を普遍的な倫理的規範を表現する手段として使用することを通じて、この主体的権利に普遍的規範性を賦与しました(C. Taylor, Source of the Self: The Making of the Modern Identity, Harvard University Press, 1989)。
 この権利主体としての近代的自己像は、テイラーが上げた3つの近代社会像と密接に結びついています。神聖な宇宙的および社会的秩序から解放された(disengaged)自由な主体に対応して、自由な個人の同意によって形成される社会、つまり、固有の権利の保持者(bearers of individual rights)である権利主体によって構成される社会という社会像が誕生したのです。
 すなわち、生産手段をまったく所有しない古代の奴隷や、不完全にしか所有しない中世の農奴に対して、「近代」の賃労働者は自分自身の労働力を自由市場に登場させて他の商品と優劣を競うことが出来る「その人身の唯一の所有者」となりました。
 身分制社会から自立した個人は、人身の自由、所有権の確立(経済的自由と平等)を基礎とし、個人が自由に議論し、相互の合意に基いてある社会制度を選択する精神的自由(思想・表現の自由)を持つ、権利の主体となったのです(樋口陽一『比較憲法』(青林堂、2000年)。

 人権工学は、従来、分子生物学がDNAという単位に基づいて構成されるように、権利主体としての自己という基層概念に基づいて構成される新しい学問です。
 また、人権という性格上、単なる実証科学ではなく、具体的な応用方法も研究対象とします。これが、この学問体系を人権主体論ないし人権思想とは呼ばずに、「人権工学」と名付けた大きな理由です。
 特に、近年、脳科学、認知科学、言語哲学等の隣接学問の急速な発展により、「自己」という意識のあり方は自然科学の用語、方法論で記述することが可能になってきています。
 人権工学は、近代社会が生み出した「近代人権」という信念体系をより科学的な基礎に基づいて再構築し、その具体的な応用方法を考えることを目的とする学問です。

 この人権工学は、近年のグローバル化も研究の対象とします。
 ITを中心とする巨大な技術革新が引き起こした経済のグローバル化は日本を含む各国経済に大きな変容を迫っています。この歴史的な構造変化について学ぶことは、21世紀を生きる私たちにとって必須の課題です。
 このグローバル化は国民国家を主要な構成員とする従来の国際社会秩序に大きな変容を迫っています。
 「わたしたちのニーズを満たしてくれる経済は地球規模となったにもかかわらず、これらのニーズの速度と発展とコントロールしようとする政治体はいまだ国家規模にとどまっている」現代社会、いわゆる「近代後期社会」において、どのような「社会道徳」が可能なのかは、私たちが現在直面する最も大きな課題の一つです(M・イグナティエフ、添谷育志・金田耕一訳『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』風行社、1999年)。

 人権工学は、近代社会を権利主体としての自己を基本単位とするシステムとして把握するという観点から近年のグローバル化を巡る課題(IT倫理学など)を検討すると同時に、人権の基本である人権感覚を養成するために様々な参加型手法(トランセンド法、プレイバック、サイコドラマ、ITを活用した多文化共生教育等)を活用した参加型人権教育プログラムの実験を進めます。その際には、自己という意識を巡る近年の隣接科学の知見、技術を全面的に活用していきます。
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by fwge1820 | 2006-04-01 09:17 | 東洋大学

二年目の講義のシラバス   

【2006年度の講義について】
人生には思いもかけないことが起こります。学問は、そんな時に新しい自分を見つけ、困難を克服する力を与えてくれるものです。

この講義では、わたし自身が体験した途上国における子ども達の現状や国際社会での出来事、そして受講者一人ひとりの体験をみんなでシェアしながら、現代世界が直面する問題を社会哲学・思想のレベルに遡って構造的、歴史的に考察するという試みに挑戦したいと思います。

自分が生き残るために人を殺したスーダンの元子どもの兵士、生まれたばかりの赤ん坊の治療費のために上の娘を売ったカンボジアの母親、戦争のために学校に行けなくなったイラクの子どもたち、フィリピン人の元エンターテイナーと日本人の間に生まれた子ども、子どもの頃に原爆で全ての家族を失った日本人の女性、そして生きる目標を喪失したように見える現代日本の子どもたち。

その背景に通底する世界の構造的要因とは何なのか。人類が積み重ねてきた英知に学びつつ、深く考え、率直に語り合ってみたいと思います。

最初の2~3回はわたしがイントロダクションおよび総論的な講義を行い、その間に受講生の問題意識を踏まえて、それぞれの報告内容を決め、その後は受講生の報告とわたしの補足的説明に基づく討論によって講義を進めていきたいと思います。

【テキスト】
森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年)

【参考文献】
イェーリング『権利のための闘争』岩波文庫(原本は1894年出版)
大久保真紀『こどもの権利を買わないで―プンとミーチャのものがたり』自由国民社、2000年
森田ゆり『エンパワメントと人権』解放出版社、2001年
ユニセフ『世界子供白書2006』
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by fwge1820 | 2006-02-11 13:30 | 東洋大学

「現代日本のアポリア―チャールズ・テイラーの『ヘーゲル』を読む」   

先日、大学教員になって初めての論文が仕上がった。
早稲田大学社会科学研究科の紀要『社学研論集』第6号用に書いたもの。
第一章はこんな感じ・・・。

 この論文では、現代日本が直面する思想上の課題に対してヘーゲル哲学が持つ意義を、テイラーのヘーゲル解釈に依拠しつつ考えることとしたい。
 テイラーは、一九六一年に『ヘーゲルから実存主義にいたる疎外の理論』で博士号を取得した後、一九七五年には大著『ヘーゲル』 、一九七九年には同著の要約版である『ヘーゲルと近代社会』 を刊行していることからも分かるように、ヘーゲル哲学に関する専門家として研究活動を始めた思想家である。 しかし、日本では『ヘーゲルと近代社会』のみが邦訳されており、しかも、同著には『ヘーゲル』において展開された『論理学』『現象学』の解釈、芸術、宗教および哲学に関する考察、ヘーゲル哲学の最も説明が難しい箇所の解明が含まれておらず 、その結果、テイラーは『大論理学』に取り組むことなくヘーゲル哲学を論じているという誤った認識すら一部には見られる。この論文が、テイラーのヘーゲル研究の全体像を過不足なく紹介する一助ともなることを期待している。
 ところで、現代日本の思想上の課題、あるいは現代日本が直面する思想上のアポリアとは何であろうか。
 テイラーは、「われわれの今日の文明における緊張は、啓蒙主義に由来するわれわれの社会の合理的な科学技術的傾向を、われわれが全面的に放棄することができず、またそうしようともしないのに、徹底的自律と表現的統一への願望を絶えず感じている、という事実からきている」と述べている。
 しかし、わたしには、現在の日本人がテイラーの主張するように「徹底した自律(radical autonomy)への欲求」と「自然との表現主義的な統一の完璧さへの願望」の板挟みになっているとは思われない。日本人は、徹底した自律も、自然との完璧な統一への願望もさほど強く感じていないように思われる。テイラーが提起した上記のディレンマとは、実は西欧が直面している「近代のアポリア」なのではないだろうか。
 日本人が、西欧人のようなディレンマを感じない理由は、わたしの考えでは、日本人が西欧人のような自己観をもっていないためである。テイラーは、西欧近代思想を支える二つの思潮として啓蒙主義とロマン主義を挙げ、いずれの思潮も単一の自己(unitary self)という観念に基づいていることを明らかにしている。 この「単一の自己」という観念は、西欧社会の知的伝統である認識論的二元論と存在論的一元論を結びつける思考様式である。物自体の世界に対する主体の自立的認識能力を確保することによって主体が認識する世界の一元性、つまり神が創造した世界の一貫性=善性が確保されるのである。
 一方、日本人は、西欧的な意味での「自己」観念を日常的な自己感覚の根底に持っていないように思われる。その理由は、湯浅泰雄が主張するように日本を含む東洋思想は伝統的に心と身体を不可分のものとして捉える傾向が強く、さらに身体的存在としての人間が修行を通じて新たな精神段階に達すること、つまり、「行為」を通じて意識の「ひらけ」に到達することを単なる思惟よりも高いものをみなす価値観が存在するためであると思われる。 つまり、日本人にとって、認識論的二元論が想定する心身二元論、主体と客体の峻別という思考様式は異質なものとして感じられているのである。湯浅は、このことを「近代西洋の哲学者は、哲学と経験科学の間には論理的な次元の区別があると考えている」が、「東洋では、哲学的推理と経験的検証とは本来一つのものでなくてはならないと考えられてきた」と表現している。
 それでは、現代日本人にとってのアポリアとは何なのだろうか。
 わたしは、西欧社会のように絶対者を想定しない汎神論的世界観を基層文化に持つ日本社会において、如何に「近代社会」が要請する自律的個人として自己意識を確立するかという課題こそが、現代日本が直面する最大のアポリアであると考えている。 その意味で、野崎綾子が現代日本のフェミニズム研究の最大の問題点として、その原点である自由・平等のような近代的理念を忘却した点にあると書いたことは正鵠を得ている。 現代日本にける最大の課題は、依然、自由・平等という近代の基本理念を如何に受容するか、なのである。
 戦後六〇年を経て、戦前の「目覚めた日本人」を苦しめていた封建的遺制は次第に失われつつある。しかし、それに代わる近代的共同体、近代的個人はまだ確立されていないというのが、現代日本の精神状況であるとわたしは考えている。
 しかも、日本では、丸山真男が批判したようにこれまでの思想や観念を歴史的、系統的に位置づけていこうとする知的伝統が形成されず 、その結果、松岡正剛が指摘するように「日本は古代から近世にいたるまで、『知』を意識しないで(あるいは意識できないままに)、いわば結果としての知をあれこれ演じてきた」 だけに留まり、その結果、日本以外の文化に属する人々に理解可能な形で日本文化を論理的に説明するという試みが十分に行われず、「近代」が要求する自律的個人の意識を日本文化の中で如何に定着させていくかという課題についても十分な論理的な探求が行われなかった。
 それでは、この「日本のアポリア」にとって、ヘーゲル哲学は如何なる意義を持っているのだろうか。
 テイラーによれば、ヘーゲルは西欧社会の近代化に伴う精神性の衰退という現象を、「精神の叙述」としての「論理学」の構築を通じて解決しようと試みた思想家である。わたしには、ヘーゲルの「ガイスト(宇宙的精神)」「弁証法」とは、近代社会が発展するなかで失われていくように思われた精神性を哲学としての論理学によって復活させるために考案されたものであると思われる。つまり、(1)ヘーゲルが目指したものは、近代化の中で見失われていく超越的な精神性(人間を超越した絶対的精神の実在)の再生であり、(2)ヘーゲルの「論理学」は、「精神」をその内在的、必然的な論理の展開のみによって明らかにすることによって、唯一絶対神の存在を前提とせずに、人間を超越した絶対的精神の実在と世界史はこの絶対的精神の発展過程であることを証明することを主要な目的の一つとしていたとわたしは考える。
 この仮説に関連して、中沢新一がヘーゲルは西欧社会において忘却されていた「思想」としての「方法」である「弁証法」を蘇らせることによって、「神話」を復活させようとした思想家であると評価している点は注目すべきである。 一方、速川治郎は、『大論理学』は「神の叙述」ではなく、人間の叙述であり、そういう形でしか神を論ずることができないと考えると主張する。 両者の主張は、わたしの考えでは実は極めて近いのであって、速川が述べている「神」とは、キリスト教が想定する世界を超越した存在としての「神」であり、速川が指摘するようにヘーゲルはそのような神の存在を認めていないのである。
 この仮説に基づき、この論文では、次の作業を行うこととしたい。
(1)現代西欧知識人で敬虔なカトリック教徒でもあるテイラーのヘーゲル哲学解釈を通じて、西欧社会が直面する「近代のアポリア」に対して、ヘーゲルが如何に取り組んだかを辿る。
(2)同時に、ヘーゲルの論理学はなぜ失敗したのか、をテイラーの解釈を踏まえつつ明らかにする。
(3)その上で、汎神論を基層文化として持つ日本社会が、自らのアポリアを克服するために、ヘーゲルの失敗から学ぶべきことは何かを検討する。
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by fwge1820 | 2005-05-30 17:15 | 東洋大学

北明美「児童手当制度におけるジェンダー問題」大沢真理編『福祉国家とジェンダー』明石書店(2000年)   

1. はじめに
日本における児童手当制度 (1971年成立)の特徴
① 世界の最低レベルにある
1995年当時の児童手当給付額/GDP
日本 0.03%
イタリア(ヨーロッパ主要国の中で最低) 0.35%
児童手当を支給される児童の比率
日本 1.6%
諸外国 20%以上
②男性世帯主中心
 児童手当の受給者  
日本 父親(かつ、父親の所得水準によって受給資格の有無が決まる)
欧米諸国 母親に受給の優先権がある

2. 日本の児童手当の変遷とその特徴
日本の児童手当制度の変遷
① 児童手当の額
1975年以降、1991年の改正まで引き上げがなかった。
 1985年改正:手当が第二子にも支給されるようになったが、支給額は第三子の半額(2500
円)
 1991年改正後:第一子 5000円
第二子 5000円
第三子以降 10000円
② 支給期間
当初:義務教育終了まで
1985年改正:小学校入学前まで
1991年改正:3歳未満児に限る
現在:6歳到達後最初の3月31日までの間にある児童(義務教育就学前の児童)
③ 支給児童数と給付総額の頭打ちおよび減少の傾向

日本の児童手当制度の特色
【受給者が父親】
① 受給者が母親:北欧および英語圏
② 一家の主な稼ぎ手(主に父親):大陸ヨーロッパ諸国
 但し、父親から母親へと受給権者は移行する傾向にある
③ 日本:父親が受給権者
1968年12月中央児童福祉審議会児童手当部会「児童手当制度に関する報告」
(但し、1964年10月中間報告「児童手当制度について」では、児童自身を受給権者とする考えを提示していた)
1971年児童手当法も、同じ方針
【受給者に関する所得制限】
① 主な生計維持者(主に父親)の所得が限度額を下回ると、手当は支給されない=父親の所得が限度額を上回る場合には、母親の所得が限度額を下回っていたとしても手当は支給されない。
② 所得制限限度額は扶養家族数が多いほど引き上げられる=専業主婦の妻を持つ夫のほうが共働きの夫より有利になる
③ 主な生計維持者が被用者の場合には、より高い限度額が適用される。

3. 諸外国における児童手当・家族手当政策の展開
【1960年代まで】
① 大陸ヨーロッパ(フランスやベルギー):企業が自営業者の拠出金を財源とし、受給権者も雇用者である男性労働者である父親が主である。
② ニュージーランドやオーストラリア:国の一般財源の税収に基づき、早い段階から母親が受給権者となっていった。
③ 英国(1945年成立の児童手当制度):ⓐ一般財源に基づくとともに所得制限を廃した、ⓑ母親を基本的な受給権者とした(エリナ・ラズボーン等の戦前のフェミニストたちの働きかけによるもの)、ⓒ就労している母親にも、専業主婦の母親にも同様な受給権が保障された
④ スウェーデン:ⓐ一般財源&所得制限なし、ⓑ母親が基本的受給権者、ⓒ第一子から支給
【1960年代末から70年代以降】
① フランス:1970年代末に2つの重大な変更 ⓐ専業主婦の妻を扶養する賃金労働者と自営業者に支給される「単一賃金手当」「主婦手当」は1977年に撤廃、ⓑ家族手当の基本的受給権者が母親へ転換
② オランダ:ⓐ1980年代に一般財源方式へ転換(女性の労働市場への進出に伴ったもの)、ⓑ1970年代末に児童扶養控除は廃止
③ 英国:ⓐ第一子への支給拡大と手当額の改善(1975年の児童給付法の成立による)、ⓑ所得税の児童扶養控除が段階的に廃止→子ども二人の場合の総給付額(1975年以前:約3%、1980年:10%)
④ スウェーデン:ⓐ1971年以降、児童手当の引き上げが進められる、ⓑ児童手当の増額(1974-75年のハガ協定による政府のインフレ対策への協力の代償、付加価値税引上等に対する補償)

4. 日本における児童手当の創設と社会運動
日本では、児童手当構想に対する労働運動や女性運動の支持は弱く、むしろ強い警戒や否定的な反応が少なくなかった。
① 児童手当構想を通じて年功賃金から職務・職能給への意向を進めようとする政府・財界の意向への警戒
② 母親に育児専念を奨励する手段として児童手当構想が位置付けられていた(優生思想や人口妊娠中絶の抑制等を内容とする人口政策と表裏一体のもの)
(1) 児童手当と労働運動
政府サイドの構想:年功賃金制度を後退させ労働力を流動化する政策と児童手当を結びつけた
1960年12月国民所得倍増計画
1963年1月14日経済審議会「人的能力に関する答申」
1963年4月厚生省児童局『児童福祉白書』
1964年中央児童福祉審議会児童手当部会「児童手当制度について」
1968年児童手当懇談会「児童手当制度に関する報告」

労働組合(特に総評系)の要求:年功賃金制度の当面維持&最低賃金制度の拡充&「家族手当法」 → 家族手当制度要求の運動は本格化しなかった(労働運動の大勢が家族賃金の社会的確立を目指していたため、児童手当・家族手当は、家族賃金の確立を促進し補完するものと位置付けられていたため)
→ 児童手当の実現には消極的:「児童手当の導入は賃金を引き下げる恐れがある」
1971年11月の日経連の方針(児童手当の実施状況に合わせて企業の家族手当を整理する)に対して、家族手当とくに配偶者手当の増額要求を求めた。
実態:1961年以降、家族手当の支給事業所割合も手当額も増加の傾向にあった。
① 日本の企業にとって、自身が支給する家族手当は有利な賃金節約手段であった。
② 家族手当の主な受給層である中高年労働者の昇給抑制に対する不満対策として有効であった。
③ 労働組合が容認し、自ら要求した。= 低経済成長期を迎え基本給での大幅賃上げが困難になった代わりに家族手当等の増額を求めた
(2) 児童手当と女性運動
① 女性労働者:性的分業の強化に対する反対から、児童手当に対して警戒。
  ↔  政府サイド:母親に在宅で育児に専念させるための児童手当制度を目指した
    労働組合:妻の扶養のための手当(家族手当)の立法化を要求(女性労働者は、
女性を家庭に戻そうとするものとして反対。1960年代末以降、総評が
児童手当法構想の支持に回ったあとも、消極的。)
主婦を中心とする市民運動:家族手当法を要求。児童手当の立法化も支持。

家事・育児労働の経済的評価が夫の賃上げないし家族賃金の実現と同一視され、児童手当、家族手当もその延長線上にあるものと認識されている。

女性が児童手当制度の独自の推進主体となる道は発見できないままであった。
② 女性運動からの児童手当構想の支持を遠ざけたもう一つの理由:政府の児童手当構想は、優生思想と人工妊娠中絶の管理によって選別されて生れてくる子どもたちを、児童手当等で支えられた性別分業家族のなかで育て上げるという人口政策・家族政策が露骨であった。
③ 女性労働者の新しい動き
ⓐ「産める社会を産みたい社会へ」→ 母子家庭に対する差別を告発しつつ児童扶養手当の充実を求める運動へ(但し、児童手当への関心は総じて薄かった)
ⓑ企業の家族手当は男女賃金差別の一つであるという告発

5. 児童手当制度の展開
②児童手当制度の空洞化
児童手当の財源の大きな部分が児童手当ではなく、企業の事業所内保育所の育成やチャイルド・ビジネスの振興等に用いられた。
(1) 財源問題と所得制限の導入
① 児童手当制度の経緯
1968年児童手当懇談会「児童手当制度に関する報告」
・おもに雇用主の拠出に基づいて所得制限なく被用者にも児童手当を支給する
・自営業者等の非被用者についても、将来手には本人拠出に基づいて同様に支出することが望ましい。
・被用者は経済的に拠出が困難な者も多いため、当面は非被用者に対しては国の税を財源として所得制限を付けることとして、手当の額も定額とする。

1970年9月16日児童手当審議会答申「児童手当制度の大綱について」
・支給対象は第三子から
・国だけでなく地方も財源を負担する
・一定以上の所得の非被用者からも本人拠出の徴収を行う
・非被用者に対する所得制限は行わず、手当額についても被用者と同一とする

自民党社会部会の提案
・非被用者の本人拠出をやめる
・非被用者に対する手当の財源は税のみとする
・被用者についても税の負担分を増やす
・被用者と非被用者のいずれにも所得制限を行う
② 児童手当制度の特徴
・被用者家庭への手当はおもに雇用主の拠出に基づく
・非被用者家庭への手当は税に基づく
・特例給付制度
→企業負担が大幅に低下した
(2) 所得制限の強化と特例給付
① 児童手当の財源(受給者ごとに別個の収支)
民間の被用者:10分の7=企業の事業主拠出金、10分の3=国と地方の税
公務員:雇用主たる所属庁が負担
非被用者:国と地方の税
② 所得制限の強化
当初:被用者と非被用者に対して同じ限度額

1982年特例給付制度:所得制限限度額を超える官民の被用者に児童手当と同じ内容の手当を支給

国と企業の負担軽減
受給資格を喪失する家族の増加
(3) 児童手当制度による児童育成事業と支給期間の短縮
① 児童手当制度による児童育成事業
1978年児童手当法改正:所得限度額の据え置きによる支給率停滞、拠出金余剰の増大に対応するもの。積立金を福祉施設費として企業内保育等の助成等に支出。
1994年児童手当法改正:福祉施設費を児童育成事業と改称、専用拠出金が新設される。(拠出者である企業へのいっそうの利益還元と保育分野への民活活力導入。→ エンゼルプランへ)
③ 児童手当の支給期間を乳幼児期に短縮
1988年中央児童福祉審議会児童手当制度基本問題研究会「児童手当制度基本問題研究会報告書」:児童手当を3歳未満に縮小することを勧告
(4) 児童手当法の2000年度改正と児童年金構想
① 2000年児童手当法改正
・支給期間:3歳未満から小学校入学前までに延長
     財源負担のための年少扶養控除の引き下げにより税負担が重くなり、拡充さ
れた児童手当でも埋め合わせることができなかった
・延長分の財源には企業拠出金は含まれていない。その結果、3歳以上小学校入学前の児童を扶養する手当は被用者・非被用者ともに税のみで賄われるにもかかわらず、非被用者は被用者より低い限度額を適用されている。
② 育児保険&児童年金構想
・15歳以下の児童の保護者に第二子まで月一万円、第三子以降に二万円を支給
・費用の二分の一は国が負担。残りの二分の一は、非被用者は国民年金保険料に上乗せ、被用者は厚生年金保険料や共済組合の掛け金に上乗せされる。(零細事業所の従業員や非正規労働者等不安定な立場の低所得者と失業者を含む非被用者は、もっとも深刻な影響を被ることになる)
・公的な保育所を利用する家庭に対しては手当を支給停止にするか、保育所に対する公費の補助を縮小・廃止し保育料金を引き上げたうえで、料金割引クーポンのみを支給する。(保育園を利用しない専業主婦・夫にのみ育児手当を支給するもの)

6. 結びに代えて
諸外国:手厚い児童手当+育児手当(一定期間育児に専念する親に対して公的保育所の補助金にあたる額を男女を問わず支給する)
日本:児童手当と保育サービスを二者択一的な関係におき、かつ児童手当を在宅育児手当に改変しようとしている

児童手当の受給権を、母親の就労の有無に関わりなく、母親に与えるべき(子どもの平等とジェンダー平等を同時に実現すこととなる)

【北明美論文に対するわたしのコメント】
(1)田端博邦「福祉国家と労働政策」のように、各国ないしグループ毎の特徴が示されていないので、児童手当制度が各国の社会保障制度・政策の中でどのような位置づけにあるのか、分からない。児童手当制度に関して日本が世界の最低レベルにあることの意味を明らかにするためには、各国の社会保障制度の全体像とその中における児童手当制度の位置付けを明らかにする必要があるのではないか?
(2)子どもの権利の視点が欠けているのではないか?
神野直彦・大沢真理「財政と年金制度」が提案するように、「全ての児童に、義務教育期間中、食費と被服費をまかなうことのできる水準(年齢別定額)の児童手当を、親の所得による資格制限なしに普遍的に支給する」児童手当が実現されるとすれば、その受給者は子ども本人であるべきではないか?
「児童手当の受給権を、母親の就労の有無に関わりなく、母親に与えるべき」という北明美の提案では、母親から虐待を受けて、母親の下を逃げ出し、養親の下で生活している子どもは、母親が親権を養親に譲渡しない限り、児童手当を受給することが出来ないのではないか?
「子どもの権利条約」の理念によれば、子どもは全ての権利の主体 であり、それぞれの権利を実現するための経験や知識が十分ではない場合には、それらの経験や知識を得ることを要求する権利があると考えられる。この原則に即して考えると、本来、子どもには衛生な環境の中で健康的な生活を送り、質の高い教育を受ける権利があるのであり、そのための費用を要求する権利は子どもに帰属すると考えることが整合的なのではないか? 
児童手当の受給者を子どもとすることによって、ジェンダー平等と子どもの平等が初めて実現するのではないか?
(3)日本では、児童手当に対する女性労働者の支持が得られなかった理由として、①政府サイドの方針(女性を育児に専念させる)と、②女性側の意識(家事・育児労働の経済的評価が夫の賃上げないし家族賃金の実現と同一視され、児童手当、家族手当もその延長線上にあるものと認識されていた)を挙げているが、分析の視点がやや女性サイドのみに偏っていて、一面的ではないか?

子どもは、親の所有物であり、妻は夫の所有物であるという観念が支配的であることの反映として把握すべきではないか?
つまり、家庭における階層社会的意識の残存こそ、児童手当に対する女性労働者の支持が得られなかった原因であると考えたほうが、より根本的かつ整合的な見方となるのではないか?

現代の日本社会が持っている「近代社会像」が間違っているのではないか?
理念型としての西欧近代社会は、中世身分制社会から解放された平等な自律的な個人が自発的な契約によって形成した水平的社会というものであった。その後、平等な個人のカテゴリーの中に黒人奴隷、女性、障害者、外国人、子どもが含まれるようになっていくと考えるのが、国際人権の一般的理解である。
現代の日本社会が共有する「近代社会像」 には、権利主体としての個人から成る水平的な社会という基本的社会像(イマジナリー)が欠如しているのではないか?

(注1)主体的権利とは、その所有者がその権利を実現するために行動し得る、そして行動すべき何かなのであり、権利という形で定義されたある種の免責を確立し強制する役割が本人に与えられるということである。つまり、主体的権利とは、生命と尊厳に対する尊重を自律性と結びつけたのである。その結果、人々には、自らの個性を自らの望むところにしたがって発展させる自由が保障されたのである。Charles Taylor, Sources of the Self: The Making of the Modern Identity, Harvard University Press, 1989。同署におけるテイラーの主張については、森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年4月)を参照。
(注2)「社会像(social imaginaries)」とは、「社会理論」よりも広い概念で、第一にある社会に生きる普通の人々が自らの「社会的環境(social surroundings)」をどのように想像しているか、に焦点を合わせた用語である。第二に、「社会理論」が一般に少数の人々によって共有されているものであるのに対して、「社会像」は必ずしも社会全体ではないが、より多くの人々によって共有されたものである。第三に、「社会像」は共通の慣習、広範囲に共有された正当性の感覚を可能とする共通理解である。Charles Taylor, Modern Social Imaginaries, Duke University Press, 2004を参照。
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by fwge1820 | 2005-04-18 08:14 | 東洋大学

国際福祉社会問題論―世界の子ども達が直面する問題と対策   

担当:森田明彦(長崎ウエスレヤン大学現代社会学部教授)
連絡先:fwge1820@jcom.home.ne.jp 携帯電話090-9856-5782
講義関連のURL:http://fwge1820.exblog.jp/i11

講義の目的・内容:国際的な社会福祉問題として、世界の子ども達が直面する様々な問題を具体例に基づいて取り上げ、その原因と対策を考える。90年代以降、世界の子ども達が直面する問題は保健、衛生、教育などの社会サーヴィスに関連したもののみならず、搾取・虐待・暴力などのより複雑な要因に基づく深刻な課題へとシフトしています。これと並行して、子どもを対象とした国際的支援活動も従来のニーズに基づくアプローチから、権利に基づくアプローチへと転換しました。本講義では、子どもを対象とした国際的な社会福祉の課題に取り組むための理論と実践の双方について理解と深めていきたいと思います。

講義スケジュール:以下の3本立てで進めます。
(1)1997年度世界子供白書「児童労働」に基づき、強制労働、債務労働、家内労働、子どもの商業的性的搾取、子どもの人身売買など、世界の子どもが直面する問題とその原因と背景、対策/具体的取り組みについてビジュアル素材等を活用して学びます。
(2)上記の対策/具体的取組の根底にある考え方、理論的枠組について学びます。
(3)参加型ワークショップ、NGOスタッフの講話等を通じて、上記(1)(2)で得た知識を実践的な知恵に転換していきます。

指導方法:ワークショップ形式による参加型学習を通じ自発的な学習意欲と習慣の醸成および表現能力の向上を図り、単なる知識の習得ではなく、子どもを巡る社会福祉問題を子どもの立場に立って理解できる考え方、姿勢の習得を目指します。

成績評価の方法:授業への出席と報告レポートの作成/報告等を含む授業への積極的な参加の度合い

テキスト:
森田明彦『人権をひらく―チャールズ・テイラーとの対話』(藤原書店、2005年4月)
ユニセフ(国際連合児童基金)発行『世界子供白書』

参考書:
大久保真紀『子どもの権利を買わないで プンとミーチャのものがたり』自由国民社(2000年)
森田ゆり『エンパワメントと人権』解放出版社(2001年)
イェーリング、村上淳一訳『権利のための闘争』岩波文庫、岩波書店(1998年)
J.ロック,鵜飼信成『市民政府論』岩波文庫、岩波書店(2001年)
塩野谷祐一/鈴村興太郎『福祉の公共哲学』東京大学出版会(2004年)
チャールズ・テイラー、田中智彦訳『〈ほんもの〉という倫理』産業図書(2004年)
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by fwge1820 | 2005-04-16 09:28 | 東洋大学