2005年 05月 30日 ( 1 )   

「現代日本のアポリア―チャールズ・テイラーの『ヘーゲル』を読む」   

先日、大学教員になって初めての論文が仕上がった。
早稲田大学社会科学研究科の紀要『社学研論集』第6号用に書いたもの。
第一章はこんな感じ・・・。

 この論文では、現代日本が直面する思想上の課題に対してヘーゲル哲学が持つ意義を、テイラーのヘーゲル解釈に依拠しつつ考えることとしたい。
 テイラーは、一九六一年に『ヘーゲルから実存主義にいたる疎外の理論』で博士号を取得した後、一九七五年には大著『ヘーゲル』 、一九七九年には同著の要約版である『ヘーゲルと近代社会』 を刊行していることからも分かるように、ヘーゲル哲学に関する専門家として研究活動を始めた思想家である。 しかし、日本では『ヘーゲルと近代社会』のみが邦訳されており、しかも、同著には『ヘーゲル』において展開された『論理学』『現象学』の解釈、芸術、宗教および哲学に関する考察、ヘーゲル哲学の最も説明が難しい箇所の解明が含まれておらず 、その結果、テイラーは『大論理学』に取り組むことなくヘーゲル哲学を論じているという誤った認識すら一部には見られる。この論文が、テイラーのヘーゲル研究の全体像を過不足なく紹介する一助ともなることを期待している。
 ところで、現代日本の思想上の課題、あるいは現代日本が直面する思想上のアポリアとは何であろうか。
 テイラーは、「われわれの今日の文明における緊張は、啓蒙主義に由来するわれわれの社会の合理的な科学技術的傾向を、われわれが全面的に放棄することができず、またそうしようともしないのに、徹底的自律と表現的統一への願望を絶えず感じている、という事実からきている」と述べている。
 しかし、わたしには、現在の日本人がテイラーの主張するように「徹底した自律(radical autonomy)への欲求」と「自然との表現主義的な統一の完璧さへの願望」の板挟みになっているとは思われない。日本人は、徹底した自律も、自然との完璧な統一への願望もさほど強く感じていないように思われる。テイラーが提起した上記のディレンマとは、実は西欧が直面している「近代のアポリア」なのではないだろうか。
 日本人が、西欧人のようなディレンマを感じない理由は、わたしの考えでは、日本人が西欧人のような自己観をもっていないためである。テイラーは、西欧近代思想を支える二つの思潮として啓蒙主義とロマン主義を挙げ、いずれの思潮も単一の自己(unitary self)という観念に基づいていることを明らかにしている。 この「単一の自己」という観念は、西欧社会の知的伝統である認識論的二元論と存在論的一元論を結びつける思考様式である。物自体の世界に対する主体の自立的認識能力を確保することによって主体が認識する世界の一元性、つまり神が創造した世界の一貫性=善性が確保されるのである。
 一方、日本人は、西欧的な意味での「自己」観念を日常的な自己感覚の根底に持っていないように思われる。その理由は、湯浅泰雄が主張するように日本を含む東洋思想は伝統的に心と身体を不可分のものとして捉える傾向が強く、さらに身体的存在としての人間が修行を通じて新たな精神段階に達すること、つまり、「行為」を通じて意識の「ひらけ」に到達することを単なる思惟よりも高いものをみなす価値観が存在するためであると思われる。 つまり、日本人にとって、認識論的二元論が想定する心身二元論、主体と客体の峻別という思考様式は異質なものとして感じられているのである。湯浅は、このことを「近代西洋の哲学者は、哲学と経験科学の間には論理的な次元の区別があると考えている」が、「東洋では、哲学的推理と経験的検証とは本来一つのものでなくてはならないと考えられてきた」と表現している。
 それでは、現代日本人にとってのアポリアとは何なのだろうか。
 わたしは、西欧社会のように絶対者を想定しない汎神論的世界観を基層文化に持つ日本社会において、如何に「近代社会」が要請する自律的個人として自己意識を確立するかという課題こそが、現代日本が直面する最大のアポリアであると考えている。 その意味で、野崎綾子が現代日本のフェミニズム研究の最大の問題点として、その原点である自由・平等のような近代的理念を忘却した点にあると書いたことは正鵠を得ている。 現代日本にける最大の課題は、依然、自由・平等という近代の基本理念を如何に受容するか、なのである。
 戦後六〇年を経て、戦前の「目覚めた日本人」を苦しめていた封建的遺制は次第に失われつつある。しかし、それに代わる近代的共同体、近代的個人はまだ確立されていないというのが、現代日本の精神状況であるとわたしは考えている。
 しかも、日本では、丸山真男が批判したようにこれまでの思想や観念を歴史的、系統的に位置づけていこうとする知的伝統が形成されず 、その結果、松岡正剛が指摘するように「日本は古代から近世にいたるまで、『知』を意識しないで(あるいは意識できないままに)、いわば結果としての知をあれこれ演じてきた」 だけに留まり、その結果、日本以外の文化に属する人々に理解可能な形で日本文化を論理的に説明するという試みが十分に行われず、「近代」が要求する自律的個人の意識を日本文化の中で如何に定着させていくかという課題についても十分な論理的な探求が行われなかった。
 それでは、この「日本のアポリア」にとって、ヘーゲル哲学は如何なる意義を持っているのだろうか。
 テイラーによれば、ヘーゲルは西欧社会の近代化に伴う精神性の衰退という現象を、「精神の叙述」としての「論理学」の構築を通じて解決しようと試みた思想家である。わたしには、ヘーゲルの「ガイスト(宇宙的精神)」「弁証法」とは、近代社会が発展するなかで失われていくように思われた精神性を哲学としての論理学によって復活させるために考案されたものであると思われる。つまり、(1)ヘーゲルが目指したものは、近代化の中で見失われていく超越的な精神性(人間を超越した絶対的精神の実在)の再生であり、(2)ヘーゲルの「論理学」は、「精神」をその内在的、必然的な論理の展開のみによって明らかにすることによって、唯一絶対神の存在を前提とせずに、人間を超越した絶対的精神の実在と世界史はこの絶対的精神の発展過程であることを証明することを主要な目的の一つとしていたとわたしは考える。
 この仮説に関連して、中沢新一がヘーゲルは西欧社会において忘却されていた「思想」としての「方法」である「弁証法」を蘇らせることによって、「神話」を復活させようとした思想家であると評価している点は注目すべきである。 一方、速川治郎は、『大論理学』は「神の叙述」ではなく、人間の叙述であり、そういう形でしか神を論ずることができないと考えると主張する。 両者の主張は、わたしの考えでは実は極めて近いのであって、速川が述べている「神」とは、キリスト教が想定する世界を超越した存在としての「神」であり、速川が指摘するようにヘーゲルはそのような神の存在を認めていないのである。
 この仮説に基づき、この論文では、次の作業を行うこととしたい。
(1)現代西欧知識人で敬虔なカトリック教徒でもあるテイラーのヘーゲル哲学解釈を通じて、西欧社会が直面する「近代のアポリア」に対して、ヘーゲルが如何に取り組んだかを辿る。
(2)同時に、ヘーゲルの論理学はなぜ失敗したのか、をテイラーの解釈を踏まえつつ明らかにする。
(3)その上で、汎神論を基層文化として持つ日本社会が、自らのアポリアを克服するために、ヘーゲルの失敗から学ぶべきことは何かを検討する。
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by fwge1820 | 2005-05-30 17:15 | 東洋大学