国際社会前史   

【本日(10月19日)のお題】自分の周囲で、これは「近代的」だと感じる慣習、規則、制度を挙げてください。また、その理由を考えてみてください。
次に、これは「非近代的」だと感じる慣習、規則、制度を挙げて、それらが「非近代的」だと感じる理由を考えてみてください。

【参考資料】
わたしたちが今生きる社会は「近代社会」である。
もちろん、世界には近代化にまだ成功したわけではない国、地域が多く存在している。
しかし、現在の世界の趨勢を決めているのは、「近代化」を一定以上実現し国家である。それでは、「近代化」とは何か?
クズネッツ(『近代経済成長の分析、ダイヤモンド社、1977年)は、この「近代化」を総体的側面、構造的側面および国際的側面から特徴づけている。
(1)総体的側面:国民総生産の急激な増加、一人当たり国民総生産の増加と伴う総人口の増加、
(2)構造的側面:生産物を生産したり資源を利用したりする産業構造が農業から非農業に移行する「工業化」、人口が農村から都市へ移動する「都市化」
(3)国際的側面:貿易等による国際経済関係の増大
一方、現代カナダの哲学者であるチャールズ・テイラーは、「近代(modernity)」の特徴を「社会像(social imaginaries)」という観点から以下の3つとしている。テイラーの提示する「社会像」とは、「社会理論」よりも広い概念で、第一にある社会に生きる普通の人々が自らの「社会的環境(social surroundings)」をどのように想像しているか、に焦点を合わせた用語である。第二に、「社会理論」が一般に少数の人々によって共有されているものであるのに対して、「社会像」は必ずしも社会全体ではないが、より多くの人々によって共有されたものである。第三に、「社会像」は共通の慣習、広範囲に共有された正当性の感覚を可能とする共通理解である。
テイラーによれば、近代社会を支える社会像とは「市場経済」「自治的人民」「公共圏」の三つである。つまり、近代社会では経済活動を他の宗教的、政治的目的に従属しない自立した活動とみなす「自律的な経済」、すなわち「市場経済」という社会像が発展した。また、中世ヨーロッパの神聖な宇宙的秩序と身分制社会的秩序から解放された自立した主体的個人という自己理解は、「自治的人民」という社会像を生み出し、「公共圏」を形成するようになったのである。(Charles Taylor, Modern Social Imaginaries, Duke University Press, 2004)
「近代」は近代国家を生み出した。
近代国家は一般に1648年のウェストファリア条約によって成立したと考えられている。
ウェストファリア条約は、三十年戦争(1618~1648年)の結果結ばれた国際条約である。この条約により、カトリック、ルター派、カルヴァン派は等しく信仰の自由を認められ、スイス、オランダの独立が認められ、ドイツの諸領邦も完全に主権を承認された結果、それまでヨーロッパを支配していた神聖ローマ帝国が無力化し、いわゆる独立国家からなる近代社会が出現したという意味で歴史的な意味を持っている。要するに、「領土、人民、主権」を有する近代国家が歴史上初めて登場したのである。
しかし、脱宗教化が近代化でもあった西欧の「近代」は、歴史的に特殊なものであることが、現在では広く承認されている。宗教と国家の問題は、日本における靖国神社問題を見ても、なかなか一筋縄では行かない問題であり、脱宗教化による近代化を強調した西欧の「近代」も、その後、大きな課題を抱えて今日に至っている。
しかし、四大文明の発生に始まり、そこからいきなりギリシャ、ローマの発展へ収束した上で中世ヨーロッパを経てイタリアン・ルネッサンス、大航海時代・産業革命を通って近代西洋にいきつくという西洋中心の偏った世界史教育が行われている日本では、西欧の「近代」を相対化する視点が育っていない。(榊原英資『進歩から共生へ』中公文庫、中央公論新社、2001年)
この西欧史観に対して、独自の歴史観を提示した日本人が二人いる。梅棹忠夫と川勝平太である。
梅棹は、自らの「生態史観」を、系譜論と対比して機能論であると説明している。現在の文明の座標を表示するために、その文化の素材の由来を持ち出すのが「系譜論」であり、文化のデザイン、生活様式を取り上げるのが「機能論」である。その上で、梅棹は日本の現代文明を「機能論」の立場から近代文明と位置付ける。近代文明とは、巨大な工業力、ぼうだいな交通通信網、完備した行政機構、教育制度、高い平均年齢、ひくい死亡率、発達した学問、芸術などと特徴とする。そして、このような近代文明を実現した地域を第1地域、その他の地域を第2地域と分類し、第2地域が乾燥地帯であり、古代帝国が生れ、その後も専制帝国が破壊と建設が繰り返された地域であるのに対して、第1地域は中緯度温帯のおだやかな地域で自生的な遷移(オートジェニック・サクセッション)が生じたところであり、その結果、第1地域では封建制が生れ、やがて資本主義への脱皮を経て、近代文明が生れたのである、と梅棹は説明する。つまり、梅棹は、西欧諸国と日本とは、いろいろな点でたいへん条件が似ていたために、平行的な道をあゆんでしまっただけなのだ、と主張する。(梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、中央公論社、1983年)
この梅棹説が西欧社会と日本の発展の原動力についての説明を欠いているのに対して、当時の西欧社会と日本の発展を海洋アジアからのインパクトに対するレスポンスとして説明したのが川勝平太の「文明の海洋史観」である。
川勝史観によると、1450年~1640年という長期の16世紀に、西欧社会と日本は海洋アジアという空間を共有していた。当時のアジアはイスラムが支配する環インド洋地域と、中国の勢力圏にある環シナ海地域を中心に栄えており、西欧社会も日本も周辺地域に過ぎず、両地域とも金銀を対価にアジアから物資を輸入するという構造的な貿易赤字体制にあった。このアジアへの経済的従属から解放されようと、両地域は生産力向上へ向かったとするのが川勝史観の核心的主張である。その結果、19世紀には両地域とも対アジアの貿易赤字を解消し、経済的自給自足を達成するが、両地域が辿った経路は同じではなかった。
第一に、西欧社会が対アジア貿易の支払いに必要な金銀を求めて新大陸に進出したのに対して、日本は当時金銀銅を自国内で完全に自給できていた。
第二に、西欧社会は人口が稀少であったため、労働の生産性を上げるべく産業革命を推し進めたのに対して、人口の多い日本では資本を節約して労働を多用する土地生産力革命、勤勉革命が起った。
第三に、西欧社会は自らが対峙していたイスラム世界から「戦争と平和」の二分法思考を導入したのに対して、日本は当時の明がもっていた修身・斉家・治国・平天下という儒教思想を導入し、そこから日本の支配イデオロギーとなる朱子学が発展し、それに対する一つのレスポンスとして賀茂真淵、本居宣長などによる国学が生れた。
そして、第四に、西欧社会が1571年レパントの海戦で、イスラムが支配するトルコに勝利し、対外膨張主義に進んだのに対して、日本は豊臣秀吉が朝鮮出兵に失敗して鎖国体制に入った。日本は、この鎖国体制の下で労働集約型の生産革命を実現し、この成果の上に明治以後の日本は資本集約型生産技術を学び生かすことに成功し、アジア最初の近代国家となったのである。(川勝平太『文明の海洋史観』中公叢書、中央公論新社、1999年)
 川勝史観は、フェルナン・ブローデル(『地中海』)、アンドレ・グンダー・フランク(『リオリエンント』)等の欧米の歴史家によっても受容され、現在、世界史の見直し作業が進められている。
 
[PR]

by fwge1820 | 2005-10-17 09:20

<< 大日本帝国と国際連盟は何故失敗... 後期のシラバス >>