Tommyさんへ ブログの意味?   

人間が生きるということは<ほんもの>の自分を自分らしい自己表現の方法を通じて少しずつ明らかにしていくことなのだろうと思います。
しかし、チャールズ・テイラーのようなコミュニタリアンが明らかにしたように、そもそも自分あるいはヒトというものは、孤立しては存在し得ないのです。
「自己」という感覚自体が、近代に生み出された歴史特殊的な自己理解の形式です。
そして、そのような自己理解は、何らかの共同体の中でのみ可能なのです。
たった一人で本を読んだり、考えているときでも、ヒトは孤立していたり、他の人々との関係から遮断された「孤立した自己」であることは出来ません。
近代社会は、自立した自己という自己理解の形式を生み出しましたが、この自己は実は特定の共同体でのみ生存し、発達していくことが出来るのです。
共同体に位置づけられていなければ、そもそも他者とは異なった独自な存在としての「自己」という感覚は存在しないのです。
この事をビジュアル化したのが、ブログのもたらした意味だとわたしは思っています。

もちろん、ここで言う共同体とは、戦前の隣組とか戦後のカイシャのような、身分制、階層性の伝統的社会を指しているのではありません。
現代日本に生きる個人は、様々な集団に、様々なレベルで関わることによって生きています。
特定集団ないし組織が、その個人の信念や生き方を歪めたり、否定することは出来ないというのが、民主主義を標榜する現代日本社会の基本的ルールです。
そういう基本的な出入りの自由を前提とした多様な共同体への参画こそ、現代的(近代的)自己の「あり方」であり、そのような「あり方」無しには、「近代的自己」という自己理解の形式は存在し得ないのです。
ブログは、この他者との関係性の中に位置づけられた表現する存在としての「自己」をビジュアル化したために、これだけ普及したのだとわたしは思っています。
この辺りの議論は、拙著『人権をひらく』(藤原書店)の第4章「言語論的転回と人権の根拠」および第7章「子どもと人権」に書きました。
ご一読いただければ幸いです。
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by fwge1820 | 2005-06-08 07:32 | わたしの仲間たち

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