コスモポリタニズム(3)   

国境を越えての慈善活動は脱近代の現象なのでしょうか?

日常生活の肯定(affirmation of ordinary life)という社会的価値観の根底には、一人ひとりの人間には固有の価値(尊厳)があり、人間は尊厳と権利において平等であるという近代社会特有の人間観があります。
しかし、17~18世紀に近代人権という考え方が西欧社会で生まれたとき、平等な尊厳を有する人間は、西欧社会の有産階級に属する白人男性だけでした。
全ての人間が尊厳と権利において平等であるというのは、ある意味で壮大なフィクションです。
その後の人類の歴史は、このフィクションを具現化するための戦いの歴史であったと捉えることも可能なような気がします。
前回も引用したイグナティエフは、現代の援助活動家、記者、戦争犯罪法廷の法律家、人権問題国連監視団員など、「どんなに遠く離れていようと他の人々の問題は自分たちみんなにとって重要だという漠然とした道義的理想」のために働く人々の増加に象徴される人権思想の国際的な普及を「権利革命」(Rights Revolution)と呼び、一九八九年の冷戦終結後、人類は初めて「すべての個人には権利があり、平等に扱われるべきである」というリベラリズムというフィクションの実現に真に取り組むことを余儀なくされているのである、と主張しています。イグナティエフによれば、リベラルな理想は四〇〇年前からあったが、すべての人間を対象とする平等の権利に基づく政治体制を樹立するという実験が始ったのは一九四五年以降のことに過ぎず、しかも一九八九年まで自由主義社会は外敵の存在から多大の社会的結合力を得ていたのです。イグナティエフは、一九八九年以降の世界を、リベラリズムが真の挑戦を受けている時代であると捉えています。(拙著『人権をひらく』23頁)
つまり、現代とはポスト近代の時代ではなく、近代の理念を徹底すべき時、あるいは普遍化すべき時期なのだと私は考えています。
わたし自身は、実はポストモダンの思想家をそれほど評価していません。
彼らは、近代思想の限界を唱えましたが、その代替物を提示できなかったと思っているからです。
この辺りのことに関心があるようでしたら、例えば西研『実存からの冒険』(毎日新聞社)『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)などが参考になります。また、バートランド・ラッセル『哲学入門』(ちくま学芸文庫)も、論理とか理性というもの価値を見直す上でたいへん役立つ本です。
要するに、平和とか人権という大きな物語の虚構性を暴くことにポストモダンの思想家たちは熱中したわけですが、その結果分かったのは、それにもかかわらず、人間は生きるために「大きな物語」を必要とするということだったと私は思っています。
小熊英二先生が『<癒し>のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)という本を書いておられますよね。結局、現代日本の大人が求めているのは、自分の人生に意味を与える「大きな物語」なのではないでしょうか?
しかし、ファシズムの狂気の歴史を経た私たちは、自らの国家や民族を絶対化するナショナリズムの精神に後退することはできません。
また、国家や民族という観念の虚構性が既に暴かれた現代において、そのような観念に自らの人生の意味づけを委ねることは既に不可能であろうと思います。
それでは、どのような生き方が可能になるのか?と考えたときに現在注目されているのが、ヘーゲル、ハイデガー、ニーチェ、ドストエフスキーなどの「それぞれの置かれた状況から出発し、限定された自分の状況を主体的に引き受けることによって自らの独自の人生の意味を発見していこう」という思想だと思います。
わたしが現在取り組んでいるチャールズ・テイラーは、この思想を「位置づけられた自由の人間学(anthropology of situated freedom)」と呼んでいます。
横浜会議でも、もし子どもや若者たちがそれぞれの思いを本当に打ち明け、理解し合おうとしなかったら、あんな混乱もその後の理解や協力も生まれなかったでしょう。
ほんとうの自分の思いを他者に伝えようとすることは、自分を理解することであると同時に、社会に参加する(他者を理解する)ということでもあることを、わたしは横浜会議で学んだと思います。
この生き方、自分の独自性を理解し実現するために、自分を他者に対してひらき、理解してもらおうと努めることこそ、近代的個人の生き方であり、そのような生き方が実現できる社会こそ自由で民主的な社会なのです。
その意味で、「どうせ自分の意見なんて誰も聴いてくれない。政府は、市民が何を言おうと自分がやりたいことを勝手にやるだけ。」と諦めている大人は、無意識のうちに自由で民主的な社会の基礎を掘り崩しているのです。そして、そのような考え方が社会の主流となってしまったような社会は安逸な社会ではあっても、「自由な社会」ではないというのが、わたしの考えなのです。
そして、本当の意味での「自由で民主的な社会」を世界に広めようというのが<ほんもの>のコスモポリタニズムであり、これこそ近代思想の<ほんもの>の継承者なのだと私は考えています。
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by fwge1820 | 2005-05-23 09:04 | わたしの仲間たち

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